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季冬
【その他 官能小説】

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月ノ章-3

「昨日は本当に御免なさい…そして、今まで有難う御座いました」
沈痛な面持ちで、紫苑は話を続ける。
「わかっていたんです。いくら父の遺志とはいえ、貴方をここに留め続けるのは申し訳ないことだって。なのに、狡い私は貴方と一緒に居たい自分の気持ちを優先させてきました。でも、昨夜やっと決心がつきました。もう、父の遺志になんて従わなくても結構ですから…」
 胸に溜めていた真情を吐露した彼女は、それ以上何も言わずにただ蘇芳の言葉を待った。
彼も、昨夜考えていたことを語り出す。
「私も、ここにいるべきではないと思いました。けれども、この家に貴女一人を残して出て行くなんてできません。それに…」
 次の言葉を口に出すには、彼にとって、とても勇気が要ることだった。
今までの二年間、自分の存在していた意義を、全て覆すことになるのだ。
それでも、彼女に伝えなければならない。
「貴女を、愛していますから…」
 紫苑は呆けたような表情をした後、彼が発したあまりにも意外な言葉が信じられず、何度も頭の中で反芻して、やっと理解できたようだ。頬が見る見るうちに紅潮する。
「え…?でも昨夜、私の気持ちには応えられないと…」
「確かに、その時はそうするべきだと思いました。私は本来、貴女を見守るべき身のはずなのにどうしようもなく恋焦がれてしまって、この気持ちは永遠に胸の裡にしまったままでいようと…。それでも、貴女が私を必要としてくれているのなら、共に在りたい。たとえ、それが先生の遺志に反する行為だとしても…」
「蘇芳さん…」
 先程から彼は紫苑のことを一度も“お嬢さん”とは呼んでいない。
自分を一人の女性として認めてくれた証なのだろうか。
「私が貴女に相応しい男とは思えません。ましてや、先生に赦してくれなどと言い訳もできません。ですが、一生貴女を大事にする…それだけは誓えます」
 蘇芳は頼りなげに微笑みを浮かべる。
ここまで歯の浮くような台詞を並べ立てられるとは自分でも思わなかった。
言い終えてからどうにも気恥ずかしくてならない。
 紫苑は、無言で蘇芳の手を取った。
「…?」
 彼女は、どう応えてくれるのだろう。
昨夜あんなに冷たくあしらってしまったのに、今更虫が良過ぎるだろうか。
紫苑は思い詰めた表情で、一度重ねた蘇芳の手を離す。
「気を遣わないで下さい。蘇芳さんは優しいから、私を哀れんでくれているのでしょう?同情はいりません…お互いつらいだけです」
 自分の思いとは裏腹の言葉がどんどん滑り出てくる。
何を意地になっているんだろう。どうして自分の気持ちに素直になれないんだろう。
それでも、彼女の口は止まらない。
彼は、ここを出るのが一番良い筈だと彼女は信じて疑わなかったからだ。
 そんな紫苑を蘇芳は決して責めたりはしなかった。
「すみません、昨夜は貴女をこんなに傷付けてしまって…拒絶されて初めてその痛みがわかりました。どうか、もう一度だけ私を受け容れてくれませんか?」
 ここでも、自分と彼との精神年齢の差を思い知らされてしまった。
狭量な自分を、少しも憤ることなく包み込んでくれる彼の懐の深さ。
この手を取ってしまえば、また自分の傍で彼を縛ることになる。だが、それでも…
恐る恐る、紫苑は一度離してしまった蘇芳の手に再び触れる。
「本当に…私みたいな子供っぽい女で良いんですか?蘇芳さん、後悔するかもしれませんよ?」
「後悔は昨夜、いやというほどしましたから…。貴女を失ってしまう以上の後悔なんてありません」
 そう言いながら、蘇芳は優しく紫苑の体を抱き締めた。
一気に縮んだ二人の距離。
優しい蘇芳の声が耳を通して紫苑の全身に染み渡る。
紫苑は、込み上げる愛しさと涙を堪え切れなかった。
「蘇芳さん…ずっと私の傍に居て下さい…」
 彼の胸に顔を押し当てて、紫苑は肩を震わせて泣き続けた。
蘇芳はそんな彼女の頭を慈しむように優しく撫でる。
「これからは、紫苑さんとお呼びして宜しいですか…?」
胸の中の紫苑が無言で頷いた。
「それと、遅くなりましたが誕生日おめでとうございます」
紫苑の頬に冷たい感触が触れる。それは、紫水晶の耳飾りだった。
「…今となっては指輪の方が良かったかもしれませんが」
照れくさそうに顔を赤らめた蘇芳の手が、彼女の耳朶に触れる。
「そんなことありません…とても嬉しいです…!」
手の甲で涙を拭った後、紫苑は満面の笑みで彼の気持ちに応えた。
「…今朝も、朝御飯の準備を一緒にしましょうか」
「はい…」
そんな二人の間を緩やかに時が流れていく…。



 床に就いて、蘇芳は今日一日のことを思い返していた。
実は相思相愛の仲だったなんて、まるで夢のようだ。
昨夜の身を引き裂かれるような切なさと葛藤が、今は遠い昔のことのように感じられる。
 彼が目を瞑りかけたその時、軽く襖を叩く音がする。
「私です…。入っても良いですか…?」
 蘇芳は蒲団から身を起こして、襖を開けると、枕を手にした紫苑がそこに立っている。
―――皓々とした月が障子越しに二人の影を浮き上がらせていた。


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