投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

季冬
【その他 官能小説】

季冬の最初へ 季冬 4 季冬 6 季冬の最後へ

月ノ章-2

「行かないで下さい…」
震える手で、震える声で、紫苑は必死に蘇芳を繋ぎ止めようとする。
「お嬢さん…!?」
意表外の彼女の行動に、彼も思わず生唾を飲み込む。
「そう呼ばれると少し寂しかったんです。蘇芳さんにとって、私は何時まで経っても父のおまけのような感じがして…」
ぎゅうっと、蘇芳を抱き締める彼女の腕に力が込められる。
「ずっと蘇芳さんが…好きでした。だから…」
 一言一言、彼女が言葉を発するたびに、彼の胸の内に込み上げるものを抑えられない。
しかし、それをぎりぎりの理性で必死に押し留めた。
自分の使命を忘れるわけにはいかない。
「…申し訳ありませんが、貴女の気持ちに応えることはできません…」
 振り向かず、彼女に背を向けたまま、身を切るような思いで、彼はその言葉を口にした。
 そう言った途端、彼女の腕の力が一気に緩む。
蘇芳はやんわりと彼女の腕を振り解いて、部屋を後にした。
 彼女の部屋から出た後、蘇芳は自分の中に俄かに生まれた心情の存在に気付いた。
それは…性欲。自分の内に渦巻く欲望が、彼女の体を欲していたのだ。
その証拠に、自分の男の部分は痛い程に反応している。
女性のあられもない姿を見て、欲情するのは男の性というもので仕方ないだろう。
わかっていても、彼女をそういう対象で見てしまうなんて最低だ。
苦々しい思いを抱いたまま、ふらつく足取りで彼は自室を目指した。
 そして、部屋に一人残された紫苑は彼が出て行った直後、畳の上に為す術もなく頽れる。
蘇芳に拒絶された悲しみ、一方的に彼を求めてしまった後悔。
これからは彼と同じ関係ではいられない。
彼女の瞳から、涙が止め処なく零れ落ちた。

 自室に戻った蘇芳は、慙愧の念に苛まれていた。
本当は、彼も紫苑を懸想しているのだから。
年齢の差や、ろくな職にも就いていない自分の立場。
気になることは多々あるが、それ以上に彼女は大事な先生の娘なのだ。
自分如きが彼女の相手で良いわけがない。
ましてや彼女を見守って欲しいと頼まれている、その信頼を裏切ることなど出来る筈がない。
 何のしがらみもなく、ただ自分の気持ちだけに素直になれたなら、どんなに楽だろうか。
あの時、彼女を抱き締めていれば、こんなに胸が張り裂けるような切なさを味わうこともなかった。
いや、せめてもっと自分に余裕があれば、突き放すような断り方をせずに済んだのに。
それに、一旦灯ってしまった情欲の火は消し難く、未だ彼の中に燻っている。
 この家に通っている時、先生が存命の頃の自分はただ絵を描くことだけを純粋に欲していた。
そして彼の亡き後、二人きりで過ごしているとしても、ここは何だか浮世離れしているようで、そんな感情は一度も持つことはなかったのに。
自分が最後に女性の肌の温もりを感じたのは、果たして何年前のことだったろうか…。
 ふと床の間に目を遣ると、一輪挿しに昼間の山茶花が飾ってある。
彼女が置いてくれたのだろう。彼女の心遣いを感じると、また胸に突き刺さった刃が彼を苛む。
―――今夜は、到底眠れそうにない。



 今朝は昨日の雪空と打って変わって、抜けるように透き通った青空だった。
いろいろと思い悩んで、やはり蘇芳は一睡もできなかった。
しかし、一晩悩み抜いた末、彼は一つの結論に辿り着いていた。
 一方、眠れなかったのは紫苑も同じだった。
「…酷い顔」
鏡の中の自分の醜態に、彼女は半ば自嘲気味に言葉を投げ掛ける。
泣き続けて目元は恐ろしい位に腫れ上がっていた。
ただでさえ顔を合わせづらいのに、こんな有様ではますます顔を見せられない。
 だが、そう思うほど皮肉なことに顔を合わせてしまうものだ。
洗面所でばったり蘇芳と出会ってしまった。
互いに朝の挨拶を交わした後、それっきり会話は途絶えた。
気まずい沈黙が流れる。その静寂を破ったのは、蘇芳だった。
「あの、話があるんですが…」
「私も、話が…」
 紫苑も昨夜ずっと悩み続けて、ある結論を出していた。
自分はきっぱりと振られたのだ。同じ家に住み続けるのはきっと互いにとって苦痛でしかない。
蘇芳を、この家から解放しなければならない。
それが最善だとわかっていても実際に口に出すのは辛かった。
「…こんなところで立ち話もなんですし、居間に行きましょうか」
 精一杯の微笑を浮かべて、紫苑はそう言って、彼を促した。


季冬の最初へ 季冬 4 季冬 6 季冬の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前