3-2
鍵を開ける音が聞こえ、続いて「ただいまー」と低く響く声が聞こえて来た。
「お邪魔」
「おう、いたのか。何か塁がうちに来るのって久々だな」
智樹はコートを脱ぎフックに掛けると、深緑のネクタイを片手でキュッと緩め、そのまま滑らせるように首から外した。鮮やか過ぎるその動きに俺は目を奪われた。俺らしいといえば俺らしい。
「発泡酒だけど、塁も呑むか?」
勧められるがままに缶を手にし、智樹と缶を合わせた。
「どうだ、一緒に暮らし始めて」
「怖い位に何もかも順調だ」
立てた膝下は恐ろしく長く、膝の上に小さな顔がちょこんと乗っている。俺はさっきまでブーツの中に突っ込んでいたカーゴパンツの裾のシワを直しながら「それは何よりだ」と心から言ったら、思っている以上に優しい声が出た事に驚いた。俺にも曽根ちゃんという恋人が出来て、心のどこかに余裕が生まれたんだろうと思う。
「ピアノの子とはどうなんだよ、順調か?」
寒い中、なかなか進まない発泡酒に口を付け「順調だ」と頷いて見せた。が、炒め物を作る騒がしい音の中から、矢部君が「十五人のセフレ」の話を掻い摘んですると、智樹もさっきの矢部君と同じように眉根を寄せて「変なのに引っ掛かったな」と言うのだ。
「俺が今まで惚れたのは、智樹の嫁と、曽根ちゃんだけだぜ? 曽根ちゃんを否定すると、矢部君を否定する事にもなりかねないからな?」
智樹は「なんだよそれ」と納得がいかない様子で小首をかしげ、訝しげな表情を見せた。それでも目の前に矢部君の手料理が並んだ瞬間、智樹は一気に目の色を変えた。俺は自分の話から注目が逸れて、一安心だった。
「毎日こんなに体に良さそうなもん食ってんだな。智樹、幸せだな」
腹が立つ程のニヤケ顏を見せつけられる。ふと、曽根ちゃんは料理をするのだろうかと疑問がわいた。一人暮らし暦は浅いような事を言っていたけれど、あまり突っ込んで聞かなかった。ケーキを食べるための食器は少なくともあった。きっと「それなり」なのだろう。俺と同じで「生きていられる程度」であればいい、みたいな考えなのだと思う。あの怠そうな見た目が「料理がうまい」という言葉に、どうやっても結びつかない。
矢部君の手料理は、日頃からコンビニ三昧の俺の胃には優しく暖かく、智樹と矢部君は同じ物を食べて胃袋の中まで同じなのだと思うと妬けてくる。誰にかと言えば......両人に。
「そういや、この前百貨店でおばさんに会ったぞ」
「まじでか。全然顔出してないや」
おばさんとは、俺の育ての親みたいなものだ。小学校六年の時に両親を事故で亡くし、俺は父ちゃんの弟に引き取られた。それからはおじさん、おばさん、その娘二人とともに暮らしていた。三年前にフランスに渡ってからはそのまま一人暮らしを始めてしまって、何の連絡もしていない事に今更ながら気付いた。
「顔ぐらい出してやれよ。塁が長居に住んでるって言ったらびっくりしてたぞ」
みそ汁をすすりながら「へいへい」と軽く返事をする。
「年内中に一度顔出しておくかな。ところでここんちは年末、何かやんの? どっか行くとか」
智樹に目をやり、矢部君に目をやる。忙しいったらない。二人は目を合わせて首をひねり、そのタイミングが狂おしい程ばっちり合っていて、笑わずにはいられなかった。
「何笑ってんだよ。年末は何もないな。年始に北海道の実家に顔出すのと、君枝んちに挨拶に行くぐらいだな」
そういえばこいつらは新婚旅行に行くとか言う話はないんだろうか。今のところ話題には上らない。行くならフランスでも推してみようと思ったのだが。
みそ汁の椀に残ったねぎを箸でつまみ上げる。くたくたに煮てあるネギは、箸を支点として左右に折れ、くっついた。
「ねぇ、鍋パーティでもやろうよ! 曽根山さんも呼んで四人で」
突如大声をあげた矢部君に驚き、俺のネギは一回転をした。
「あぁ、いいな、それ。この前の結婚式のお礼もきちんとしたいし。塁はどうよ?」
俺は箸に残ったネギを口に突っ込み「曽根ちゃんに聞いてみないとわかんないもん」と口を尖らせる。「今すぐ電話しろ」と言われてしまい、俺はみそ汁を飲み干すと、曽根ちゃんの番号を呼び出し、電話をかけた。
『もしもし塁?』
「あ、曽根ちゃん。今電話大丈夫?」
この時点で智樹が腹を抱えて笑いをこらえているのが目に入り、気に入らない。俺が好きな女に電話をかけているという光景が、きっと物珍しくてネタになっているのだろう。
『うん、私も今かけようと思ってたところ』
「何、どうしたの?」
『充が、この前いた奴、あいつが今からうちに来るって言うからその.....助け』
「今から行くから。鍵、開けちゃ駄目だよ」
俺はそれだけ言うと電話を一方的に切り、夫妻に「ちょっと用事」と言って食後の緑茶を一気に飲み干して上着を引っ掴み、走って玄関を出た。曽根ちゃんの家までは電車で三十分はかかる。俺は一本でも早い電車に乗るために走った。