投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

おぼろげに輝く
【大人 恋愛小説】

おぼろげに輝くの最初へ おぼろげに輝く 6 おぼろげに輝く 8 おぼろげに輝くの最後へ

-3

 こんなには走ったのは高校の野球部の引退試合、9回一死で一塁走者だった俺がワイルドピッチを見て二塁に走ったとき以来だ。さすがに息が切れて、矢部君が作った生姜焼きが喉のそこまでこんにちわしていたが、何とか飲み下し、電車に飛び乗った。
 電車がいちいち駅に停車するのが苛立たしく、俺は座っていられなかった。上谷戸駅に着くと俺はまた走った。こんな走りじゃボールを拾ったキャッチャーが二塁に投げて二死間違いなしだ。それぐらい、俺は疲れていた。アパートに到着した時は二十一時近かった。俺は階段をトントンと駆け上がり、上り切る寸前で曽根ちゃんが住む角部屋のドアに目をやった。
 走りすぎて幻覚が見えているのだと思った。思わずにはいられなかった。
 玄関の外に出た曽根ちゃんは、師走の空の下、薄い部屋着のままで玄関の前にいる。立たされているようにも見えた。腕をだらんと身体の横にぶら下げて、足なんて殆どつま先立ちだ。サンダルが斜めに浮いている。その身体を受け止めているのは富樫とかいう、スケボーの兄ちゃんだった。要は、富樫が曽根ちゃんを強く抱きしめていた、と言う事だ。
「あのー、曽根ちゃんに呼ばれて来たんですけど」
 俺の声にハッとして顔を寄越したのは曽根ちゃんで、つま先立ちの足をばたつかせると、サンダルが乾いた音を立てて転がる。富樫は腕の力を緩めて彼女を解放した。彼女が埋もれていた部分のダウンがくしゃっとつぶれていて、それがゆっくりと空気を含みながら戻って行った。
「何をしてんですか、人の彼女に」
 俺は階段を二段下がったところから言ったから、背の高い富樫を見上げるようだった。富樫はニットキャップを被った頭を少し傾げて「俺の女に手出ししてんじゃねぇよ糞ガキ」と言う。全く俺の目を見ようとしないが、俺は逆に富樫の目をじっと見た。彼の瞳には後ろめたさが露骨に見えて、目は口程に物を言うとはよく言った物だなぁと感心せざるを得ない。
 富樫は俺の横を、わざと肩をぶつけるようにしてすり抜けて行き、俺は寸でのところで手すりに掴まり、身体を支えた。身体もでかいけど力も強いようだ。俺なんてへし折られてしまいかねない。
「遅くなっちゃって悪いな」
 苦笑しながら階段をのぼりきり彼女を見ると、俯いたまま動けないでいる。俺はなんと声をかけたら良いのか分からなくて、とりあえず彼女が声を発するまで待った。何も起こらないまま五分は経過しようとしていた。彼女の薄着が気になって、俺は着ていたダウンを脱いで肩から掛けてやると、それを切欠に彼女は動いた。俺に凭れた。俺の胸の中で口を開いた。
「玄関、開けちゃった。ごめん」
 俺は自分の手の平を、目の前でぎこちなく開いたり閉じたりした後、彼女の頭をゆっくりと撫でた。さっきまで富樫に抱きしめられていた名残なのか、髪が乱れているのを手櫛で直してやる。
「理由は中で聞く。入ってもいい?」
 泣いているのか、寒いからなのか、一度鼻をすすると「うん」と言って俯いたまま玄関を開けた。部屋の中は暑いぐらいにエアコンがかかっていて、彼女が薄着だった理由が分かる。


おぼろげに輝くの最初へ おぼろげに輝く 6 おぼろげに輝く 8 おぼろげに輝くの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前