ROB-8
とにもかくにも。壁の端に寄って,そこを覗き見る。
この成り行きで,いつもそこに居るはずの人物を思う。
居ない。
黒いソファがふたつ。ガラス張りの,小さなテーブルの左右に配置されている。卓上に,灰皿が一つ。その中に,吸い殻はなかった。
左のソファにいつも腰を下ろしている,奴を思う。
まだ,居ないのか。
それとも,もう中にいるのか。
なんとなく,ソファに腰掛ける。右側に座っていた。
座り心地はかなりいい。
腰を柔らかく受け入れる。
沈む,という感じではない。
受け止める,という感じでもない。
座る人間の気持ちになって造られた,という感じ。
やることがないので,何となく,目を閉じる。
全身の力を抜く。自然と,頭が傾いていく。
このまま,首から上が抜け落ちてしまうのではないかと思うくらい,自然に。
自分の首が,大理石の床に転げ落ちる画を想像する。
俺の首にナイフを入れたら,どんな感じだろう。
蝶のナイフは,それを果たしてくれるだろうか。
きっと,簡単に抜け落ちる。
そんなに執着心はない筈だから。
生きることに。
でも,それではつまらないのかもしれない。
殺す側としては,少しくらいねばってほしいもの。
経験から言って。
ナイフを使うものとして,言わせてもらえば。
蝶のナイフのそいつは,どう思うだろうか。
それより蝶のナイフって何?
「お帰りなさいませ。」
フロントの男の声。俺は,目を開けた。どうしてだか,心臓が抉られたように,跳ね上がった。抉られたことなんてないけれど。 ヤマダが来た。
そう思った俺は,耳を澄ます。
足音がこちらにやってくる。
規則正しい,足音。
そして,壁から現れたその人物。
エレベータに佇む後ろ姿。
違う。
か細いなりの,少年。
ヤマダじゃない。
俺は再びソファに身を沈める。
何をこんなにそわそわしているのか,分からない。
俺は気持ちを落ち着かせるため,再び目を閉じ,息を大きく吐く。
やはり,中に入ったのだろうか。
そう思いながらも,ここを動こうとしない俺。
ここで奴を待つことに,どんな意味があるだろう。
別に,中で待っていても同じじゃないか。
それ以前に,あいつはもう中に入っているかもしれないじゃないか。
何故だろう,落ち着かない。
煙草が吸いたい。
吸ったこと,ないけれど。
どんな味がするんだろう。
ヤマダは以前,美味いと言っていた。
当時7歳だった俺に,そう言った。
箱から一本抜き取って,試しに口にくわえてみた俺を見て,笑っていた。
あの時は,煙草をくわえれば勝手に火がつくものかと思っていたんだ。
仕方がないので,俺はフィルターをかじって,味を確かめた。
味なんてしなかった。
興ざめ。
あれ以来,俺は煙草をくわえていない。
「おい。」
突然,誰かに呼ばれて目を開ける。そこに,訝しげな表情の,ヤマダの顔があった。
「何してるんだよ,こんなところで」と,ヤマダ。
俺は慌てて立ち上がる。
立ち上がったことに,別段意味はない。
反射的に,立ち上がっていた。
スーツは早々に脱いだらしく,今ヤマダは黒いティーシャツを着ている。猫の顔が大きく描かれている。白い絵の具をまき散らして偶然出来上がった,季節の絵画みたいな。
猫にもヤマダにも見られて,よけい落ち着かない俺。とにかく,エレベータの方へ歩く。
ようやくひとつ,言葉を思いつく。
エレベータの堅いドアを見ながら,後ろを着いてくるヤマダの足音に,言う。
「随分,遅かったな。どこで道草食ってたんだよ。」
一瞬の間を置いて。
「待ちくたびれちゃったかな,ハニー」と,ヤマダが一言。
ふざけた奴だ。
本部へ着くまで,俺は一言も口を開かなかった。普段以上に饒舌な,ヤマダの独り言を聞きながら,顔を固める。時折笑いを堪えながら。下らない内容だ。誰かの物真似だとか,女の話だとか。面白おかしく喋り続ける。
本当,ふざけた奴だ。