眠れない妻たちの春物語(第一話)-6
正直に言います…あなたと関係をもったのは偶然ではありません…私は妻の昔の恋人の妻である
あなたを無性に抱きたかった…妻があなたのご主人にあんな姿で抱かれたことを思うと胸が張り
裂けそうになるくらい息苦しい日々をおくっていたのです。
私もまたあなたに対して、妻がされたことをしてみたかった。そして、あなたを縛って鞭を振る
い、あなたを私のものにするということがどういうことなのか、確かめたかったのです。
でも、できなかった…。できない理由はわかっています。私とあなたは愛し合う者同士ではない
ということです…。あなたのご主人と妻の愛の彼方にあるものを、私があなたに望めるわけがな
いのです。
妻はあなたのご主人に会えたことで、大変充たされたことを私に告げました。東京で妻がどんな
風にあなたのご主人と過ごしたのかを妻に尋ねることはありませんでした。
そして、妻は、私への感謝の言葉を吐くと静かに息をひきとりました。
今、妻は目の前にひろがる美しいレマン湖のほとりの墓地に眠っています。
おそらく、私の愛ではなく、あなたのご主人のことを胸に抱きつづけていることだと思います。
私は、それでもいいと思っています。
近くのアルプスの草原では、春の訪れを知らせる白や紫のクロッカスの花々が優しく咲き乱れて
います。妻はクロッカスの花が大好きでした。この花のことについて、生前の妻が何かを語った
ことはありませんが、おそらくあなたのご主人との大切な思い出だったと今さらながら思いを
めぐらせています。
でも、あなたと会えたことで、私はなぜか、あなたのご主人に対して嫉妬を抱くことがなくなっ
たような気がします。
あなたは、私が思っていた以上に優しさに溢れる素敵な女性でした。妻が愛したご主人が、最愛
の女性として、あなたを選ばれたことに深い感慨と思いを募らせるばかりです。
私にとって、あなたとすごしたあの夜のことは、一生忘れられないものとなりそうです。
また、いつかあなたに会えることを楽しみにしております。
どうか、お元気で…。
ムラタ ユキオ …
ムラタさんとからだを交わしたあの夜が、幻影のように遠く霞みながら心に浮かんでくる…。
もちろん夫は、ムラタさんの妻のことを口にしたことは一度もないし、私も夫を問い詰める気も
なかった。
マンションのバルコニーから薄紫色の黄昏の空を眺めていると、視界がほのかに溶けてくる。
不意に乾いた風が頬をゆるやかに撫でたかと思うと、私の瞳の奥から流れ出る雫を優しく抱き
しめ、静かに駆け抜けていった…。