眠れない妻たちの春物語(第一話)-2
「雨になりましたね…よかったら、この傘を使ってください…」
ムラタさんに初めて声をかけられたのは、三週間前の金曜日の夕方だった。
急に降り始めた雨に、私が自宅のマンションに近いバス停の屋根の下で雨やどりをしていたとこ
ろを、このあたりでは見かけないムラタさんに出会ったのだ。
スイスから仕事で一時帰国をしているというムラタさんは、紺色のスーツを品良く着こなし、
艶やかな白髪をかすかになびかせ、彫りの深い顔と澄んだ藍色の瞳をしていた。その吸い込まれ
るような優雅な瞳に、なぜか私は魅了されるように惹かれていった。
いや… 私のからだに注がれる彼の視線に、いつのまにか私のからだの奥が、ひとりでに彼を
意識していたのだ。
「綺麗な方ですね…」
そう言いながら、私の首筋にねっとりとムラタさんの視線が絡みついたとき、私は、彼の欲情を
すっと自分のからだの中に誘い込もうとしていることに気がつく。
近くのバス停でムラタさんと何度か会ううちに、彼との関係を深めていきたいと願う自分の心が、
何よりも自然に思えてきたのだ。
ムラタさんに会える予感のする日だけは、なぜか念入りに化粧をするようになった。
からだの中で螢のように瞬き始めたムラタさんに対する性の疼きは、しだいに煌めく光の渦と
なり、からだの中に今にも溢れようとしていた。
夫のいない日の夜は、ムラタさんと食事をいっしょにするようになった。しだいに彼のことを
思うと夜も眠れなかった。静けさに閉ざされた私のからだのなかで、性の鼓動が、ふたたび
瑞々しく息吹始めていた。
「あなた、今週の出張の予定は…」
夫が家にいない夜が、いつのまにか気になるようになっていた。
「ああ、いつだったかな…たしか来週、三日ほど大阪だったかな…珍しいな、カズエがオレの出
張の予定を聞くなんて…」
「私もいろいろ予定があるし、食事の準備もあるじゃない…」
ソファで朝のコーヒーを飲みながらテレビのニュースに見ている夫を振り返ることもなく、私は
台所で洗い物をしながらそう言った。
夫を裏切っているとは、思わなかった。夫婦は夫婦であり続けても、私が女であり続ける欲望を、
夫に否定されなければならないことだとは思わなかった。いや、私は勝手にそう思いこみ始めて
いたのだ。
そして、夫が出張で家をあけた夜、私はムラタさんに初めて抱かれた…。