第9章 -1
例によって今夜も会食から帰って慌ただしく入浴を済ませ、寝間着に着替えて自室のPCを開き、弦一郎は警察からの経過報告が届いていないか目を皿のようにしてメール画面を追う。
弦一郎が早希の捜索願を出してから10日が経過した。だが手掛かりは全く掴めていないようだ。
背もたれに力なく体を預け、ウィスキーを注いだグラスをあおりながら弦一郎は眉間にシワを寄せた。早希が消えてから、弦一郎は心中穏やかではなかったが仕事は待ってはくれない。じりじり焼かれるような焦燥感を覚えながら忙殺される毎日を送っていた。
帰国後間もなく拉致された為、早希が企画室から抜けたダメージは小さく、社内での危機感は軽いものだったが、そんなことは重要な問題ではない。弦一郎が何より恐れているのは、彼女がこの会社からいなくなることが会社全体、弦一郎の人生そのものにいずれ重大な影を落とすに違いない将来のことだった。会社の事業の隆盛を助けていたのは彼女の存在そのものだったからだ。
だがこんな話を誰に話しても信じてもらえないのはわかっている。狂信だ妄執だと嗤うだろう。だが、名だたる経営者、成功者たちの多くが何らかの宗教に入信しているか、決まった占い師を抱えている。成功の不可思議を体験した事のない者に限って目に見えない力を嗤うのだ。
弦一郎の一族はもともと奈良の豪農だった。それが戦後まもなく農業の限界を感じた弦一郎の父が大阪に出て穀物問屋を営むようになってから一族は格段に繁栄した。農民だった一族が生き馬の目を抜く商売の土地で商売をする―。そんな無謀なことは誰もが発想すらしないだろう。だがその時の当主である弦一郎の父は山林に住む村の一族の誰か一人でも引き入れられれば必ずや上手くいくと信じて疑わなかった。何故なら、弦一郎の先祖はこれまでも折に触れその山林の一族を家に引き入れ、思わぬ戦乱や天変地異があるごとに、不思議と無傷で周囲の土地を増やすことが出来ていたからだ。
そして弦一郎の先々代は、大阪に進出する時例の山林に住む一族の一人を番頭として連れていったのだった。
果たしてそれが今の弦一郎の事業の前身となる乾物卸問屋の隆盛につながった。その男の存在が何より大きかった事を弦一郎を含め一族の誰もが痛感していた。
山林一族の詳細は、分家には一切知らされず本家嫡男だけに口伝で受け継がれて来た。
大学進学が決まったある夜、弦一郎は父に呼ばれた。
『今からお前を一人前と見なして山林一族のことを話しておく。だがその前にこれを決して口外しないと誓いなさい。』
そう前置きした上で父は弦一郎に彼らと弦一郎一族との関わりを伝えたのだった。