第4章 -1
12月23日、中学1年生の慧次郎がフランスにやってきた。
シャルルドゴール空港でイミグレーションを済ませた慧次郎を見つけて早希は思わず駆け寄ると、何と僅か数ヶ月で慧次郎は早希の身長を超えていた。
『わぁ…慧ちゃん、また伸びた』慧次郎の荷物の小さい方を受け取ると、にこにこしながら慧次郎を見上げた。顔はまだあどけない子供のままの慧次郎が照れくさそうに早希を一瞬見たかと思うとうつむいた。
早希は慧次郎のやってくる23日と24日、25日の3日間、話題になっているレストランのランチとディナーを優先順位順に予約していた。25日は古参レストランはこぞってクローズする。25日に予約できる店は新進気鋭の店のみなので、老舗の銘店は23、24日に予約した。
早希は、級友や最近付き合い始めたボーイフレンドには『家族が来るから』と、誘われたクリスマスイベントを全て断り、30日までずっと慧次郎と過ごしてそのまま二人で帰国することに決めていた。
初日のディナーから早希は慧次郎に驚かされた。
一軒目のレストランを目の前にして、『姉さん、今日は僕が全部エスコートするから』そうきっぱり慧次郎は宣言すると、持ち込んだスーツをしっかり着こなした中学生の弟は、早希の背中に手を添え、ドアを開けて迎え入れるギャルソンに完璧なフランス語で労った。
メニューも、慧次郎にプライスの入ったものが手渡された。早希は慧次郎が頼もしくて可愛らしくて吹き出しそうになるのを必死の思いで堪えながら弟に完全にイニシアティブを明け渡す。
慧次郎は、早希も驚くほど流暢なフランス語で『最初はシャンパーニュをグラスで頂きたいのですが、可能でしょうか?』と訊くと、ギャルソンは満足気に『ご予約のコース序盤に相応しいものをグラスでもお出しできます』と。すると慧次郎は、精確な発音で更に、
『その後は白・赤両方ボトルでお薦め下さいますか?僕はワインをよく知りませんので、皆さんに全てお任せしたいのです』
そう堂々と話したのだ。大人と変わらぬ上背ではあるが、面差しは中学生だ。身の丈にあった素直な申し出に店の誰もが好感を持った。しかも慧次郎のテーブルマナーは驚くほど完璧で、慧次郎の物怖じしない堂々たる振る舞いに店の全員が敬意を表した。
人間の器とは、こうしたものなのだなぁ…と早希は感じ入った。
後で聞けば慧次郎は夏休みに帰国直後から専任の家庭教師を雇ってフランス語とテーブルマナーを数カ月間徹底的に学習したと言う。
24日の夜、ディナーからほろ酔い加減で下宿に戻り、二人は相前後してシャワーを浴び、階段を上がった。廊下で『じゃぁ慧ちゃん、おやすみなさい。また明日ね』と自室に入ろうとする早希の背中に慧次郎がぽつりと話しかけてきた。
『姉さん…彼氏とか、出来た?』
慧次郎からの思わぬ問いにぎくりとしながら、『えー…いないよーそんな人』と答えた早希の強張った表情を見て、慧次郎は早希のそのウソをすぐさま見抜き、『そう…。…じゃぁ、おやすみなさい』と、悲しそうな笑顔を浮かべたのだ。
あの頃の慧次郎の表情を思い出した瞬間、早希は落雷に打たれたような感覚を覚えた。
(慧ちゃん…)
我知らず、早希の目から涙が零れた。決壊したが最後、もう涙が止まらない。
声を潜めて音もなく泣いた。
人間は時々、どれほど重大であろうが気付く事なく記憶の澱の下に沈めてしまうものなのか。
いや違う。と言うより、あの時気付こうとすれば気付けた真実を、早希の中の何かが拒んで“何の意味もないものとして”沈めてしまったのだ。
あの時の慧次郎の表情の意味を。自分の気持ちを。自分の本音を偽ったわけを。
ふと見ると、寝ていたはずの慧次郎が静かにこちらを見つめていた。
『あ。あ、ごめんね。起こしちゃって』浴衣の袖で目をこすった。
『何で謝るんだよ。姉さんはちっとも悪くないだろ。相変わらずお人好しだな』
くすりと悲しげに微笑みながら、涙の理由の咎が自分にあると信じて疑わない慧次郎は手を伸ばして早希の頬の涙を拭う。
『慧ちゃん…。…私……慧ちゃんが好き…』思わぬ姉の言葉に、ひくりと慧次郎の手が震える。その手を後から後から溢れる涙が濡らしていく。
『好き…』嗚咽を上げながら早希は重ねて告白した。
慧次郎は早希の項に手を伸ばし、髪の毛に指を入れてゆっくり引き寄せた。
もう片方で早希の細い二の腕を掴んで胸に抱くとその額にくちづける。
『姉さん…』慧次郎はそう言った切り、その先を続ける事が出来なかった。