第3章-3 -1
そうこうしているうちに座卓に置かれた電話の子機が鳴った。時計を見ると6時を少し回ったところだ。
『姉さん、腹具合はどう?』慧次郎が訊いてくる。早希は高級旅館のような弟の気配りに微苦笑しながら『うん…実はお腹すいてきた』と甘えた事を思わず言ってしまう。
『…そう。下ごしらえはもう出来てるから、いつ来てもいいよ』と慧次郎は穏やかにそう言った。
台所に行ってみると、慧次郎が広い背中を向けてレードルで鍋の中の物を掬って味見をしている。
見れば一枚板で作られた分厚い黒のダイニングテーブル中央には七輪が置かれている。その周りに大小の小鉢が並び、手前には漆塗りの黒い箸と赤いスプーンがいぶし銀のカトラリーレストに置かれている。
小さい小鉢には筍と若芽の酢味噌和えに山椒の葉が乗せられ、大きい方には豚の角煮に青野菜の炊合せ、へりに和辛子が添えられている。
慧次郎は振り返ると『とれたての筍だから穂先を炙ろうかと思うんだけど』と七輪に目をやった。
24歳とは思えないセンスだ。
筍の穂先をうすく切って刷毛で酒醤油を塗り、七輪に乗せる。じゅわっと香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
『わぁ…美味しそう!』
慧次郎は程良く焦げ目のついた筍を早希の取り皿に乗せる。
『今日は筍と山菜メインだから白ワインか辛口の日本酒が合うと思うんだけど…』と訊いて来た。
早希は慧次郎が日本酒を傾けるところを見てみたくて『じゃあ日本酒…』と思わず答えた。
だが、(オムライスには白ワインを合わせたいな…)などと思い直し、『あ、でも後で白ワインも欲しい…』と遠慮がちに言った。慧次郎はくすりと笑って『わかった』と一言答えて、きんきんに冷えた錫製の平たい酒器と黒切子のぐい呑みを早希の目の前に置いた。その配色も素晴らしい。
慧次郎が自分の分を手酌で注ごうとするのを制して酒器を取り、早希は慧次郎に注いだ。
動かない慧次郎のぐい呑みに自分のを近づけてかちりと当て、『乾杯。いつも美味しいご飯を有難う』と弟を見つめた。
瞬時慧次郎の目が瞠かれて目が合うが、すぐさま逸らされ弟の視線はぐい呑みに落ちる。
『…もし足りないようなら山菜の天ぷらも出来るから…』呟くようにそう言うと、注がれた酒を一気に飲み干した。
早希のリクエストした和風オムライスの具材は細切りの筍だった。筍にもしっかり出汁が染み込んでいて香りも素晴らしい。鮮やかな黄色の卵の上に澄んだ銀餡がつややかに輝き、その上に針生姜が乗っている。筍のあえかな香りを殺さずに、なおかつメリハリをつけるに相応しいあしらいだ。
オムライスを乗せた楕円の器は春らしい桜色の萩焼だった。赤の漆塗りのスプーンが鮮烈なアクセントとなっている。
改めて、弦一郎の事業を継ぐに相応しいのはこの子だった、と早希は痛感した。
和やかな夕餉の後、やはり慧次郎は早希を激しく抱いた。だが、ふらふらになった早希を慧次郎は静かに横たえると、早希の隣に仰向けになった。そしてまもなく枕のない慧次郎は、自分の両手を枕にして寝息を立て始めた。
慧次郎が今夜は自分の部屋を出て行かない。早希はそれだけで嬉しかった。
―枕はどこにあるのかしら。私が探しても不愉快かな…。
そんなことを考えながら早希は慧次郎を見つめた。顕になった腋に当然ながらある体毛を見てどぎまぎしてしまう。慧ちゃん大人になったね…などと間の抜けた事を早希は考えてしまった。