第2章-1-1
一方、早希の家では当然ながら大騒ぎになっていた。
子会社で働いている早希の弟二人も家に呼ばれ、弦一郎を中心に今後の対策を講じていた。
去年婚約した早希の未来の伴侶である氏家晃司にはまだ事情をはっきりとは知らせていない。ことが事なだけに、弦一郎は早急に解決させて出来れば彼には一切伏せたいと考えていた。だからこそ、彼の焦りはいや増しに増した。
関連会社社長である長男、優(まさる)、仕出し弁当チェーン取締役の次男、工(たくみ)のおろおろと困惑しきった顔を眺めて、弦一郎はつくづく(こいつ達を呼んだとて何にもならんかったな…)と改めて溜息を吐いた。重苦しく不毛な沈黙に耐えかねた工が
『パパ、姉さんの携帯の電波をキャッチしてみた?警察になら探知できるはずだけど』
『ああ…。それに関しては頼んである。だが受信出来るのは東京都と周りの6県の範囲程度だそうだ』苦虫を噛み潰した顔で弦一郎にそう答えられてしまえば、息子二人に父の気を休められそうな言葉はそれ以上思いつかない。
優と工、弦一郎の息子二人には、実は父親に大きなわだかまりがあった。自分達の実母が亡くなった喪も明けきらぬ間にあっさりゆりえを後妻に迎えたかと思うと、ようやく母と慕うようになれたその継母をまた離縁出来てしまえた弦一郎が一体何を考えているか、彼らの理解を超えていたからだ。そしてここまで冷淡な父親が何故姉の早希にはこれほど執着し、ここまで心を痛めるのか…確かに姉さんは優秀だけど…。その上、そう心を痛めながら弦一郎には娘を奪われて悲嘆にくれる父の悲哀が感じられないのだ。不信感とも嫉妬とも義憤ともつかない負の感情が二人を支配していた。
『…もういい。たとえ警察がダメでも別の手を講じるまでだ。お前たちも何か手掛かりになりそうな事を思い出したら連絡をくれ』苛立った様子でそう言うと二人の息子を開放した。
窓の外の平和な風景にも腹が立つ。公園から響いてくる子供たちと母親の楽しげなさんざめきも弦一郎の神経を逆撫でする。
弦一郎は確信していた。
―拉致したのは慧次郎だ。それは間違いない。そしてそれをゆりえが後押しをしている可能性も高い。あいつらは頭のネジが狂っているんだからな―。
弦一郎が離縁状を突きつけた時、ゆりえは慰謝料を一切要求しなかった。だが、今にして思えば慧次郎が早希を篭絡しさえすれば彼らの目的は遂げられる。それを見越して虎視眈々とその機を待っていたとしたとて不思議はない。
そもそもゆりえを家政婦として雇う時もっと素性を調べるべきだった。
だが当時、弦一郎は3人の子供を抱えて途方にくれていて冷静さを欠いていた。
次男の工が幼稚園に上がるとすぐ後妻の優子の体調がおかしくなった。乳がんだった。若い優子のがんの進行は早く、半年後呆気なく逝ってしまった。自分に必要なのは実のところ家政婦ではなく、長女の早希と母を恋しがって赤ん坊返りをしてしまった息子二人の母親だった。だから、弦一郎は家政婦協会ではなく新聞で家政婦を公募した。破格の給金で募集した為、たった一日の掲載で応募者は300人を超えた。その一人一人の写真付き履歴書に弦一郎は自ら入念に目を通し、絞り込んだ10人に秘書に連絡させ、その全員に弦一郎は直接面接をした。会社の新卒採用ですら弦一郎が面接するのは将来の幹部候補になりそうな数名だけである。
当時23歳だったゆりえには子がいたが、それが却って弦一郎を安堵させた。それなら育児はお手のものだろうと考えたからである。
ゆりえの面接時、表向きは家政婦の面接だから弦一郎は少し気が引けたが、下心が優って郷里の事を訊いてしまった。するとゆりえは、言いにくそうに身を縮めて、
『家族の意にそまぬ男性との子を未婚で産んでしまった事で家族とは絶縁状態です。恐らくもう二度と会ってはもらえないでしょう』と寂しそうに語った。
そのゆりえの連れ子、慧次郎は見るからに利発で我が子達よりしっかりしている印象だった。
『あなた自身の息子さんも手の掛かる年頃だ。家の事を、…うちの三人の子供の世話まで出来るかな?』期待を込めて弦一郎がそう尋ねると、ゆりえは
『体力には自信があります。料理も大好きですし…お任せ頂けたら嬉しく存じます』と深々と頭を下げた。しっかりした言葉遣いにも弦一郎は心動かされた。
1年後、ゆりえの仕事ぶり、母親ぶりに感服した弦一郎は『この女性なら』と確信して求婚し、入籍したのだった。