第1章-2-1
散々抱かれて一人残された寝室は、見渡すと畳敷きの20畳ほどの和室だった。雪見窓から月の光が差し込み、逆光になった庭木の蒼昏い幹が覗いている。
敷かれた布団の端に新品の浴衣が置かれていた。早希はそれを慣れない手つきでのろのろ着ると敷き布団にぺたりと力なく腰をつけた。
…とにかく、ここを出なければ。
帰国早々作成した企画案は部内会議でも好評で、次の取締役会の議案に上がることが決まったばかりなのだ。今日、早希は興奮気味に企画書を更にブラッシュアップし、稟議書に盛り込む予算の試算までしていたのだ。
やっと本社に戻ってやりたかったことが出来る―。その矢先の事だった。
…たとえ救いだされたとしてもこの件を世間に公表するつもりはない。自分の醜聞を隠す為ではなく弟を犯罪者にしたくない気持ちが優っている。だが当然ながら衝撃は余りにも大きい。自分に向けた慧次郎のあの暗い表情。そして自分を犯した。それだけで立ち直れそうにはない。余りの事に涙すら出てこなかった。
何故ここまで憎まれるようになったのだろう。胸が潰れそうになる。
早希は、フランスへの赴任が決まる直前に慧次郎と殆ど話す事が出来なくなっていた。
理由は分からないが、慧次郎が一切口をきいてくれなくなったからだ。
それどころか目さえ合わせてくれなくなっていた。辛かった。だがそれでも慧次郎を弟として大切に思う気持ちに変わりはなかった。弟の今回の暴挙が早希には全く理解出来ないが、それでもあの当時の慧次郎の態度の急変と今回の件が無関係とは到底思えない。だから恐らく、ここまで弟を屈折させた原因の、少なくとも一端は自分にある、と言う事なのではないか。そうでなければここまでの事をするはずがない―。
その理由を、知りたい。理由が分かればこの辛さも羞恥も乗り越えられそうな気がする…。
そして…一体ここはどこなのだろう。思えば継母ゆりえと慧次郎の出身地も二人の親戚の話も聞いた事がない。
窓から漏れる月の光で、部屋は隅々まで何とか見渡せる。だが着ていた服もバッグも見当たらない。探すだけムダのように感じられた。
部屋を見る限り旧家の屋敷と行った趣だ。こんな設えは都内にはなかなか無いに違いない。それに事の次第に鑑みても慧次郎が都内近郊に早希を拉致したとは考え難い。
枕元に目をやると、身につけていた腕時計があった。今の早希にとっては唯一の持ち物だ。力なく笑いながら時刻を確認する。
明け方4時だった…。退社が午後6時。1時間は慧次郎に抱かれていたから…と、それを考えると再び胸が潰れる…がそんな弱い自分を叱咤して逆算する。
恐らく2時にはここにいただろう。と、なれば少なくともここは、都内から車で8時間程度の場所であるはずだ。そこまで考えただけで早希は家に帰り着くまでの遠大な道のりを想像し、暗澹たる気持ちになった。
だがそれどころではない。とにかく身一つで脱出し、交番を探そう。警察署があればもっといいのだけれど…。タクシーはつかまるかしら…。
玄関まで無事に辿りつけられたら、あとはとにかく全力で走ろう。この時間なら…。
そこまで考えると早希は矢も盾もたまらず、しっかり浴衣の帯を締め、足音を立てぬようゆっくりと襖を開けた。怯える早希には『すす…』という襖のすれる渇いた音すら大きく感じられる。
廊下に出ると、左右に伸びたその遠い前方は闇に吸い込まれて行き止まりが見えない。しかもどちらが出口の方向なのかどうか見当もつかない。その廊下に沿うよう、延々と続くガラス窓からは広大な庭園が広がっている。
早希は絶望的な気持ちに駆られながらも、一か八かより長いと思われる方へゆっくり歩を進めてみた。
向かった廊下の行き止まりを曲がると、うっすらと光の差し込む扉が見えた。
玄関だった。