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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-33

「下に降りようか」と日下部は言った。「そうだね」と僕は迷うことなく賛同する。

堤防の塀を乗り越え、僕たちは入り江に降りた。海の一部を抱えるように伸びる陸地の両端は、視界にすっぽりと収まるほど短いし、砂浜も申し訳程度に広がるのみ。海水浴場としては機能していないのだろう。小石混じりの砂浜は弓なりに続いていて、堤防のコンクリートと良く似た色をしている。踏みしめる度に砂利が硬質な音を立てた。決してムードのある浜辺とは言えなかった。カップルで海水浴に興じるよりは、近所のおじさんが釣りをしている光景のほうがマッチする場所だった。いや、そもそも岩場が多すぎて泳ぐのには適さないだろう。
重々しい濃紺に染められた海を見詰めながら、それを抱き締めるように日下部は両手をいっぱいに広げた。そして大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

「いい匂いがする。ざらざらした匂い」と彼女は言った。
「ざらざら? ああ、確かにそんな感じだね」
「これ、好きな匂いだよ」

硬質なくせに何処か優しい香りが鼻孔をくすぐる。それが肺から四肢へと行き渡り、全身を海の属性に染められていくような気がした。確かに、なかなか悪くない感覚だった。
日下部は辺りを見回し、砂利に打ち捨てられた黄土色のポリバケツを発見すると、その蓋を手に取って高々と掲げて見せた。

「フリスビーやろうか。ほらほら」
「犬扱いはまだ続くわけ?」

若干の抵抗感を含んだ声で僕は応じたが、口調とは違い、気分はもう乗り気だった。海を前にすれば体を動かしたくなるのは本能的なものなのだろうか。

「私を喜ばせるのが――」

日下部は手首のスナップを効かせ、ポリバケツの蓋を投げた。テニスボールをバックハンドで打ち返すような一連の動作からフリスビー(便宜的にそう呼んでしまおう)が放たれる。音もなく回転しながら円盤は宙を駆け、僕の袂に導かれる。

「――僕の役目なんだろ」

言葉の穂先と一緒にフリスビーを受け取った。

「分かってるじゃない」

満足げに彼女は言って、ひょいひょいと人差し指で催促するようなサインを送ってくる。
僕は自分の顔に小さな笑みが溢れるのを感じていた。日下部は何だか機嫌が良さそうで、機嫌が良さそうな日下部というものは実にレアな存在で、今それを目撃しているのが自分だけだということが妙に嬉しくて――。胸の中にふわふわとした温もりが漂っているような不思議な気分になる。
日下部を真似て、僕もフリスビーを投げた。円盤は狙った位置よりも右に逸れてしまうが、日下部は機敏な反応でそれをキャッチした。
「おお、ナイスキャッチ」
「シノ、下手くそ」
「風のせいさ」
「嘘だね。言い訳するな」

じゃれ合うようにそんな会話をして、フリスビーを投げ合う。
僕たちはまるで未知なる通信手段を発見した子供たちのように、あるいは時の流れに葬られた太古の儀式を手探りで再現しようとする臆病な学者ように、恐る恐ると、しかし隠しようのない冷静な情熱を持ってフリスビーを投げ続けた。宙に浮かんだ円盤が自分の手元に収まるまでのあいだ、僕はそこに残留した日下部の意思の残滓を読み取ろうとしていた。言語に変換することのできない煌めく断片を探していた。円盤が描く鮮やかな軌跡の中に、秘匿されたメッセージを求めて刮目してみた。勿論、それらはまったく持って無駄な努力だった。僕はエスパーではないのだから、無表情な顔で投げられたポリバケツの蓋から日下部沙耶の心の中を垣間見るなんて超人的な真似はできなかった。それでも僕はその不毛な努力を続けた。感じようとすることが何よりも大事なのだと思った。目には見えないそよ風が風鈴を揺らせて音を鳴らし、一抹の涼しさをもたらすように、不可視のものを知覚可能な感覚に変換することは、ごく自然な人間的行為であるように思われた。言葉はなくとも、何かを伝えることはできるのだというその証明を、僕は今この瞬間の記憶に刻みたかったのかもしれな
い。


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