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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-32

「二十円」と日下部がまじまじとアイスを見詰めながら言った。
「え?」
「これ。子供の頃より、二十円高くなってた」
「ああ。前は六十円だったか」
「うん」

何の特殊性もない会話だ。如何なる注釈も必要としない、何でもない遣り取り。でも、日下部とベンチに座ってアイスを食べながらする会話としては、何処となく違和感を覚えてしまう。日下部沙耶というアクセントには、本質的に日常を非日常に変質させてしまう特殊効果があるのかもしれない。
近くの林道からは、最近は数が減ってきたというアブラゼミがジリジリと油を熱するような音を発していた。不気味なくらいに澄み渡った空の下、さんざめく光に、アスファルトがじりじりと焼かれている。ひと吹きの青色を得たような清冽な風が、火照った肌の上を舐めるみたいに滑っていく。類型的な夏の風景に埋もれて、僕たちは黙々とアイスを食べていた。
確かに、と僕は思った。確かに僕は少し苛々していたのかもしれない。訳も分からず延々と歩かされたし、何故か勝手に自分と沢崎を比較しては胸中を疼かせていた。日下部の不器用な気遣いがそんな靄を払拭してくれたのは、小さな驚きだった。こんなことをする奴だとは思わなかったし、こんなことで喜ぶ自分にも驚いていた。
不意に“飴と鞭”という言葉が天啓のように思い浮かぶ。もしかしたら、僕は今、順調に教育されているのかもしれない。チーターに調教される犬?

「何よ?」

日下部の横顔を眺めながらそんな不吉なことを考えていたら、アイスの棒を口にくわえたまま、彼女は胡乱な目付きを投げ返した。

「いや、別に。アイス、ごちそうさま」

ぷいっ、という擬音が聞こえてきそうな動作で顔を逸らし、アイスの棒をゴミ箱に投げ捨てる日下部。腰を上げ、スカートの後ろをぱんぱんと払う。

「行くよ」

ああ、と頷いて立ち上がる。何処へ行く気なのかという疑問は、もう抱かなかった。此処ではない何処かなら、きっと、何処でもいいのだ。
海辺の集落に独特の、眠そうな雰囲気を突き破るように、僕たちはまた歩き始める。先程よりはゆったりとしたペースで、僕と彼女との距離感も随分と近くなっていた。物理的にも精神的にも、無意識の内にお互いが少しだけ歩み寄った結果なのかもしれない。
二人の足は自然と潮の香りが漂う方へと向かっていた。民家の合間を縫って、石垣を貫くように造られた階段を昇ると、開けた視界には海岸線が横たわっていた。堤防の塀の向こう側に、インクを溶かしたような濃紺の海が渺々と広がっている。長い土手をランニングする初老の男性が目の前を横切ったけれど、唐突な解放感に襲われた僕たちは見向きもしなかった。
「広いね」と日下部は彼方を見詰めながら、実にシンプルな感想を口にした。それが妙に面白くて「まあ、広いよね」と僕は笑いを押し殺して同意する。なかなか悪くない会話だ。当たり前のことを言葉にして、共感を分かち合う。それだけのことが何故こんなにも際立って感じられるのか不思議だった。
あっけないほど果てしない水平線を眺めていると、自分がこの上なく無防備な存在に思えてくる。雑念や煩悩をすべて剥ぎ取られ、世界に対して剥き出しにされているような漠然とした不安感を覚える。裸にされた自分がひどく頼りなくて、でもそれが自然な姿なのだという安心感が、矛盾することなく僕の中に混在していた。


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