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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-34

「ねえ」

やがて、遠慮と親密さの同居した控え目な声が聞こえた。真夜中の来訪者が遠慮がちに鳴らすノックのように、その呼び掛けは慎ましやかな響きで僕の耳に届けられた。

「なに?」と僕は応じる。
「誰でもよかったわけじゃないから」

突然、そっぽを向いた日下部がそんなことを言い出した。潮騒に拐われかけた語尾が消え入りそうに霞んでいる。胸の奥から絞り出した言葉が、欠片になるまで削られてようやく辿り着いたといった感じだった。

「だから、何の話さ」
疑問と同時にフリスビーを投げ反す。
「察し悪いね。この、変な関係の話だよ」

目を逸らし、ツンとした口調で彼女は言った。フリスビーが眼前に迫り、慌てて腕を伸ばす。

「覚えてるでしょ。金野のことで私が停学になったこと」

埋もれていた記憶が一瞬にして掘り出される。嚇怒に駆られた教師の目。ぽたぽたと落ちる真っ赤な血。泰然とした日下部の後ろ姿。彼女は動かなかった。厳格な絵描きの前に立たされた少女のようだった。ただその少女は誰かの叱責を恐れてはいなかった。自分の意思で動くことを放棄していた。その毅然さは美しかったが、同時に何か儚さのようなものを僕に感じさせた。

「まあ、忘れられるわけないな。目の前だったし」

頭上を越そうとしていたフリスビーをジャンプして掴まえる。

「あの時さ、シノ、何か反応してたよね。うまく言えないけど」

吃驚した。気付かれていたのか。掴みかけていた円盤が手から溢れ落ちる。

「反応って。うまく言ってもらわないと分からないよ」
「だから、何か後ろで立ち上がったような気配がしたっていうか。後になって思い出してみると、確かにそんな感じがしたんだ。もしかしてさ、あの時、止めに入ろうとしてた?」

疑問符とは裏腹に、その声は確信を得た響きで投げられた。彼女の顔を見る。目が合う。今度は真っ直ぐに僕を見据えていた。

「さあ、覚えてない」
「さっき忘れられるわけないって言ってた」
「それも忘れた」
「とぼけてばっかりだ」

批難を込めた彼女の声が、ツンと尖って僕の耳を刺す。何も聞こえなかった振りをして、フリスビーをキャッチする。

「まあいいや。とにかくね、白状すると、あの時からシノには目を付けてた。何かあったら、このお人好しを利用できるかもしれないって」
「そんな些細なことで?」
「些細なことだからだよ。そんなことで私に関わろうとする奴、他にいないじゃない」

自嘲するでもなく、淡々と事実を告げる声で彼女は言った。独りでいることをとうの昔に受け入れて、それに痛みを感じることさえなくなった人間の声なのだろう。

「そうかな。いや、まあ、そうだな」
「それでさ、問題用紙を買わないかって話を持ちかけられた日だけど、あの時にはもう、何かが起きそうな気がしてたんだ。何となくだけどね。後付けで言ってるわけじゃないよ、これ」
「その割りには随分と怒ってたみたいだけど」
「怒るよ。もっと好転的なことが起きると思ってたら、騙されてたんだもの」
「勝手にハードル上げて勝手に怒ってたわけだ。可哀想だな」

軽い嫌味を込めた言葉に、拗ねたように黙る日下部。


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