海螢(芙美子の場合)-1
あのときから、母が嫌いになったのだ。母に似ていることを言われるのはもっと嫌いだった。
…母さんに似ているね… 初めて会ったタツオさんからもそう言われた。
父は幼少の頃、交通事故で死んだ。父の記憶はあまりない。老舗の料亭の女将として仕事に追わ
れる母だけがいつも芙美子の傍にいた。どこか凛とした美しさをもった母を芙美子は小さい頃か
ら自慢していた。
そんな母が好きだった。少なくともあのときまではそう思っていた…。
タツオさんはあのころ、母の料亭で見習いの板前さんとして働いていた。芙美子より十歳年上だ
ったから、彼が二十六歳の頃だ。三歳年上の兄より、タツオさんは芙美子にとって実の兄のよう
な人だった。
いや…兄以上の存在だった。初恋だった…ずっと、想いを寄せていた。無口だったけど、短く刈
った髪をした顔の中にある、どこか吸い込まれるような澄んだ光をもつ瞳が好きだった。タツオ
さんは、どちらかというと細身で背が高かったが、小麦色の肌は硬く締まっていた。
片想いだった…。どこか胸の中を締めつけられるような青いものが、確かにあの頃の芙美子の中
に芽生えていた。
そして、言葉をあまり交わすことなく、タツオさんは芙美子が高校二年のときに、わずか一年半
足らずで店を突然出て行った。
芙美子は今年で三十五歳になる。昔からぽっちゃりした高校生みたいな丸顔なので、いつも若く
見られるのはよかったが、確実に歳はとっているのだ。
十年前に母がクモ膜下出血で倒れ入院してからは、料亭のある実家に転居してきた兄夫婦と
芙美子はずっといっしょに住んでいたが、三年前に母が死んでからは、義姉と同居することに
なんとなく気をつかうのが嫌になり、ワンルームの賃貸マンションを借りた。
総合病院の勤務医の兄は、母がいなくなった店を義姉が女将として続けることを勧めている。
…いいのよ…別に気をつかわなくて…お義母さんがいなくなっても、フミちゃんの家なんだから、
いつでも戻ってきてね…結婚するまでいっしょに住んだらいいのに…
実家に戻ったときに義姉から言われる結婚という言葉が、なぜか咽喉に棘のように突き刺さる気
がした。
タツオさんがいなくなってから、これまで好きな男性がいなかったことはない。可愛い女…と振
り向かれたことも以前はあったけど、夢中になる恋をしたことはなかった。
いや…できなかったのだ。