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そいつ
【純文学 その他小説】

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そいつ-1

「何だかブルースが聴きたいな」とそいつは言って、タバコを取り出して火をつけた。
「ブルースがいいよ、今は。1971年、俺たちゃスタートの銃声を聞いた。ニューヨークはさんざんだったがカンザスじゃ最高だった……みたいのが聴きたい」
そいつはそう言いながら一服吹かした。それから火のついたウィンストンの先を見やり、少し顔をしかめてから、テーブルの上にフィルターをコンコンと打ち付けた。煙が不精そうに立ちのぼって、灰がパラパラとわずかにテーブルに落ちた。そういうことは火をつける前にやるもんだ、と僕は思った。

 そのとき店に流れていたのはトルキッシュなピアノ・ソナタだった。なんとなく技巧的にひねくれた曲だったが、僕はけっこう気に入っていた。
「別にこれでいい」と僕は言った。「深夜の神経のくたびれ方にぴったりだ」
「そうか?」とそいつは疑わしそうに言った。
「そう思うね。すでに分かってることを一々説教されてるみたいでいい。追い込まれるみたいな気持ちになる。イライラできる。なんでこんなにのんびりできるんだろうなと思ってたから丁度いい」
「何言ってんの」
そいつはあくびをしてから、二、三回貧乏ゆすりをした。それだよ、その貧乏ゆすり、と僕は思った。今お前なんかと話をしてるのは、話してると微妙に苦痛な気分になれるからだ。
「お前こそ、何言ってんの。そのニューヨークだかカンザスって何」
「知らん。雰囲気で言った」
「まあ、そうだろうと思ったけどな」
「ああいう曲には、ときどきアメリカの都市の名前が出てくるよな」
「カンザスって言ったら何となくカントリーっぽいけどな。ブルースってよりは」
「そうかも知れん。カンザスがどんなところか、俺は知らんけど」
「ドロシーの出身地」と僕は言った。
「ドロシーって誰」
「トトの飼い主」
「なんや、トトって」
「犬。ドロシーが飼ってる」
「んで、そのトトはなんなの。有名な犬か」
「有名かどうかは知らん」
「そんで、ドロシーはトトの飼い主か」そいつは言って、煙を勢いよく蛍光灯のある方向に吹き付けた。「お前そりゃ、ドロシーが誰かの説明になってねえよ」
「そうかも知れん。でも別に、知り合いじゃないからな」僕は灰皿を指で弾いてそいつの方に渡してやりながら言った。
「お前と話してると疲れる」そいつは大袈裟に言った。
「分かってる。一々説教してくれてありがとう」
「んで、ドロシーって誰やねん」
「話すと長くなる。ドロシーの旅は長く険しかった。途中で猛獣とかノータリンとか非生命体に出会った。ああ、さいしょは魔女に会ったんだったな。それから最後に詐欺師にあった」
「ますます分からんな」そいつは灰皿に灰を落としながら、だんだんと真剣に考えはじめていた。
「そういうとき、ますますブルースが聴きたくなるだろ」僕は言った。
「なるな」
「まあ、その気持ちは少し分かるような気がせんでもない」
「んで、そろそろ教えろや。ドロシーって誰やねん」
そいつは割と本気でイライラしてきていたので、僕はそろそろ教えてやろうかとも思ったが、正解を言ってもこいつはガッカリするだけだろうと思った。別に何かの意味があって出した名前でもなかったからだ。
「マディー・ウォーターズのヴォーカルの名前だよ。それがドロシー」僕は出まかせを言った。
「マディーか。ふうん、ドロシーっつーの。変わった名前だな」そいつは何だか妙に腑に落ちたような顔をした。どうせ明日になったら忘れるだろうから、ちょっとくらい嘘を教えたって平気だろう。


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