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白衣の天使
【その他 官能小説】

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白衣の天使-6



 予約の分の診察が終わると待合室は無人になった。電話も鳴らないし、おまけに入院患者はゼロという始末である。ストーブの上の薬缶が蒸気を吹き出し、忘れ去られたようにちりちりと音を立てている。
「ちっとも患者が来ないね。今日はもう閉めたほうがいいのかな」
 暇を持て余した椎名はスナック菓子を摘まんだ指をティッシュで拭うと、たまたま目についた駄玩具の知恵の輪で遊び出した。
「先生、しっかりしてください。そんなことでは信用を失いますよ」
 雑務の手を休めずに恵麻が忠告する。以前の彼ならそんな弱音は吐かなかったのに、新山夕姫という女性患者が退院した翌日あたりからどこか様子が変なのだ。
 彼女を車で送ったあとの空白の時間に何かがあったことは間違いない。では二人のあいだにどんなやり取りがあったのかと訊かれると、それは恵麻にもわからないのだった。
「すみません」
 受付のほうで声がする。恵麻が出ていくと、ニット帽を被った髪の長い女性が脱いだコートを手にして立っていた。化粧の仕上がり具合いで気づかなかったが、女性は新山夕姫に間違いなかった。今日はピアスもつけている。
「保険証を持って来たんですけど」
「ありがとうございます。確認しますので、椅子にかけてお待ちください」
 恵麻は新山夕姫から保険証を受け取ると、椎名には知らせずにさくさくと手続きを開始した。手は動いているが、意識は新山夕姫の気配に向いていた。女の勘が、二人を会わせてはならないと言っている。
「新山さま、保険証をお返しします」
 恵麻は敵意を悟られぬよう振る舞うが、「あの」と新山夕姫に睨みつけられてしまう。初めて会った時とはまるで別人のようだ。
「椎名先生はどこかしら。いるんでしょ?」
「おられますが」
「会いたいんだけど」
「それは、診察を希望されるということでしょうか?」
「彼に会って話がしたいの。ただそれだけ」
 何よ、勝手な女──恵麻は頭に血が上った。口にこそ出さないが、生物学上もっとも嫌いなタイプの女だ。美人で、傲慢で、二重人格で、自己顕示欲の強いホモサピエンス。
「少々お待ちください」
 恵麻は鼻先をつんと上げて診療所の奥へ消えた。一方の椎名はまだ知恵の輪と格闘している。
「先生に会いたいと言う女性の方が見えてますけど」
 ぶっきらぼうに恵麻が言うと、椎名は急に立ち上がるなり白衣を正し、劇画タッチのような目つきで「ありがとう」と言い残してすたすた歩き出した。来客に心当たりがあるのだ。
「やあこれは、新山さん」
「椎名先生、先日はお世話になりました」
 当たり障りのない会話を交わす椎名と新山夕姫に、嫉妬心の炎をめらめらと燃やす恵麻。医師と患者のあいだに芽生えた絆なんて、ただの錯覚に決まってるのに、先生の馬鹿──。
「ところで先生、例の話は前向きに考えてもらえました?」
 新山夕姫は猫撫で声を発した。
「そうですね。正直、まだ迷ってます」
「私ならいくらでも待ちます。気が向いたらここへ連絡してください」
 新山夕姫が名刺のような紙を差し出した。それを椎名が躊躇なく受け取る。
「近いうちに、かならず」
 二人の様子をのぞき見していた恵麻は複雑な気持ちだった。その女はあなたを騙そうとしている、深くて暗い穴の底へ引きずり込もうとしている──それに気づいて欲しいだけなのに、彼の心はどんどん離れていく。
 恵麻にしてもただ指を咥えて傍観しているだけではなかった。診療所をおとずれる患者は減る一方だが、椎名の役に立てるよう一生懸命働き、毎朝五時に起きて二人分の弁当を作るのを欠かさなかった。
 しかし椎名は恵麻の心遣いに感謝するどころか、ある時から弁当に見向きもしなくなった。わけを訊くと、新山夕姫が弁当を持たせてくれているのだと彼は言った。だから君はもう何もしなくていい、と切り捨てられた。
 やはりあの女の仕業だったのだ。いちばん信頼していた椎名にまで裏切られ、恵麻はもう誰も信用できなくなっていた。でも彼は悪くない。おそらく椎名は新山夕姫に洗脳されているだけなのだから。
 蓄積されたストレスが臨界点を超えた時、恵麻は診療所を辞める決意をし、ナース服を脱いだ。日に日に変わり果てていく椎名と一緒にいるのも辛かった。
「そうか、わかったよ。お疲れさま」
 椎名から聞けたのはたったそれだけで、引き留めるような素振りもなかった。少ない荷物をまとめ、恵麻は後ろ髪を引かれる思いで椎名診療所をあとにした。
 途中、浴衣姿の観光客らしき男女とすれ違ったが、そこに自分と椎名の影を重ねることはできなかった。
 


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