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白衣の天使
【その他 官能小説】

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白衣の天使-14



 椎名診療所にかつての日常が戻った。
 生命には寿命があり、召される生命と同じだけ誕生する生命もある。だからこそ尊いのだと椎名はいつも肝に銘じて患者と向き合っている。不老不死などありえない。
 人間の健康寿命が延びたところで、この世から病気がなくなるわけではない。ようするに病院や診療所が暇になることはないのである。
「心音は綺麗ですが、念のために血液検査をしておきましょう。詳しい説明は看護師から聞いてください」
 椎名は聴診器を耳から外し、発熱で顔を赤くした患者に紳士的な眼差しを向けた。患者は若い女性で、ブラジャーで覆った胸を服の中にしまうところだった。そこそこのボリュームがあり、目鼻立ちも整っていて芸能人の誰かにそっくりだ。
「ありがとうございます」
 礼を言う女性患者が椅子から立ち上がるタイミングで、「診察室の外でお待ちください」と恵麻が手で示した。女性患者はもう一度頭を下げ、退室した。
「高崎さん、あとはよろしく頼む」
「わかりました。そんなことより先生、私が注意したことは守られてますよね?」
 彼女の言いたいことは何となくわかる。女性患者に対して下心を抱くな、という意味の指摘を椎名は前に受けたことがあった。恵麻はそれを心配しているのだ。
「大丈夫、ノープロブレムだ」
 能天気な椎名はそう言ってガールフレンドである恵麻に微笑みかけた。もちろん恵麻の目は笑っていない。
「ああそうだ、今夜は寿司屋を予約してあるんだ。もちろん回らないほうの寿司だけど、行くよね?」
「うん、行く」
 恵麻が可愛らしく返事をすると、椎名はあわてて周囲をうかがった。診療所の中では医師と看護師の立場をわきまえること、とあれだけ言っておいたのに。
 それでも椎名はまんざらでもない表情で未来の妻の顔を見上げた。彼女の肌は雪のように白く、いや、今日はいつにも増して色白だ。血の気が引いているようにも見える。
「高崎さん?」
 椎名が呼び掛けるのと恵麻がえずくのがほぼ同時だった。彼女はそのまま女子トイレに駆け込み、しばらく出てこなかった。椎名は気を揉んだが、患者を放って診察室を離れるわけにもいかず、様子を見てきて欲しいと顔馴染みの老婦人に頼んだ。
 やがて恵麻を連れて戻ってきた老婦人が、とんでもないことを口にした。
「おめでただね。恵麻ちゃんは妊娠してるかもしれない」
「そう、みたいです……」
 申し訳なさそうに恵麻が上目遣いで見つめてくる。椎名はすぐには反応できず、妊娠の意味を理解するまでに数秒がかかった。つまり彼女が母親で、自分が父親になるということか。
 実感は湧かないが、望んで生まれてくる生命であることに変わりはない。男の子か、女の子か、名前はどうするか、将来は診療所を継がせるか──悩みは尽きることがない。
 そこに水を差したのは一本の電話だった。受け付けに置いてある黒電話が鳴ったのだ。恵麻が持参した女の子のフィギュアもたくさん並んでいる。最近では恵麻が好きなアニメ番組を椎名も視るようになった。
「僕が出るよ」
 予防接種の予約かもしれない、と椎名は普段通りの調子で受話器を取り、椎名診療所ですと応じた。恵麻は親しくしているほかの患者と何やら話し、はにかみながらお腹をさすっている。
「もしもし?」
 相手が用件を話さないので、椎名は少し大きな声を出した。こちらの声は届いているはずなのだが。
 すると、かすかにだが人の息遣いのような声が聞こえた。嗚咽とも違うし、呻き声でもない、嫌な感じのする声だった。まさか嫌がらせの電話なのではないか、と思った直後である。
「……、……、……」
 空気の震えるような音が電話の向こうから伝わってきた。いや、女性の声だ。古いカセットテープを再生しているような途切れ途切れの声だ。
「ソ……、……、……ヲ」
「すみません、よく聞こえないんですけど」
 さすがの椎名も苛立った。出産の準備やら何やらで忙しくなるかもしれないのに、余計な仕事を増やすなと文句を言いたかった。
「用がないなら切りますよ?」
 椎名は最終通告をして受話器を耳から離そうとした。が、頭の奥にまで響いてくる女性のささやきが形を成した時、彼は精神の糸を断ち切られ、はげしい動悸と興奮をおぼえるのだった。
「ソ……ノ……オ……ン……ナ……ニ……セ……イ……ノ……サ……バ……キ……ヲ」
 呆然と立ち尽くす椎名の視線の先で、涙ぼくろの似合う白衣の天使は無償の笑みを浮かべていた。天使の子が生まれるその日を疑わず、母親になる覚悟を瞳に宿らせながら。
 


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