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薄氷
【SM 官能小説】

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薄氷-5

ホテルの窓の外で、港に停泊する船の汽笛が鳴った。その響きは、ふたりのあいだで止った時間に混じり入り、時間の輪郭を撫で、拡散し、遠ざかっていった。
部屋の暗さにあなたの目は少しずつ慣れてきているはずなのに、ベッドの中のファミレスで出会った若い女の顔はいつまでもぼんやりと漂っている。それでもあなたは女と体を交えたことに、なぜか違和感がなかった。
女は眠ったのだろうか、行為のあとの体の余韻に酔っているように瞳はじっと閉じたままだった。彼女の薄い小さな唇は仄かに湿り、わずかに開いたすき間から白い歯が零れている。 
まだ少女のようなあどけなさを残した顔とこれから花を咲かせようとする蕾のように閉じた軀(からだ)は白々と照り映え、微かな呼吸を示す咽喉元から拡がった豊満な胸の隆起だけが瑞々しく揺らいでいた。
初めて会ったのに、その女は、男と別れたから抱いてもいいわとあなたに言った。あなたにはその意味が理解できなかった。男との記憶を失うためにあなたに抱かれたのではなく、男の記憶を失いたくないからあなたに抱かれたのだろうか。女の目は虚ろに焦点が定まっていなかった。それはあの頃の妻の目と同じだった。
あなたは萎えたペニスを覆ったコンドームをテッシュで包む。冷たくなった薄い精液がゴムの先端に澱んだように溜まっている。意味のない精液……少なくともあなたの目の前にいる女に対する欲望を精液は微塵も含んでいない。それはおそらく妻を強姦したあの男のものであった女に対する、そしてその男に抱かれている妻に対する欲望だったかもしれない。
窓の外の闇が冬の黎明の透きとおる明るさを含み始めている。ベッドの中の女は眼を閉じたままだった。あなたは《その女とセックスを行えたこと》がとても不思議に思えた。射精の感覚は、ただ生理的なものであって、若い女に対する欲望でも、性愛でもなく、とらえどころのない霞のような情感だった。なぜなら、女を愛撫し、抱いたあなたの手や唇に、そしてペニスそのものに、その女の気配も感触も残ってはいなかったのだから。

――― ただ、あの男に抱かれている妻の姿と、あの男に捨てられた女を抱いたという意識だけが、あなたに確かな欲望の残滓(ざんし)を残していたのは間違いなかった……。


朝、ジョギングをするあなたの息はとても白かった。冬を迎えたばかりだというのに今朝はとても冷え込み、空気は冷たく、公園の池には珍しく薄氷が張っていた。いつでも割れて壊れてしまいそうな薄氷は、まるであなたの心と身体のように、不安定に黎明の光を吸い込んでいた。
男と銀座の喫茶店で会って以来、連絡はなかった。あの女とからだを交える以外、あなたの生活は三年前から何も変わらなかった。変わったとすれば、あの女を抱くことでふたたび別れた妻を意識し始めたことだった。
朝の五時に起き、近くの公園までジョギングを行い、軽くストレッチを行い、浴室でシャワーを浴びる。いつものスカイビルのファミレスで珈琲を飲み、経済新聞にひととおり目を通し、八時前に出社する。
あなたは朝のシャワー室で全身を鏡に映して自分の裸体を眺め尽くすようになった。なぜ、そんなことをするようになったのか自分でもわからなかった。おそらく、あの男と会って以来、《自分の肉体について考える》ようになった。頭の先から足の先まで、自分を他人のように、いや、他人として執拗に肉体を眺め尽くすことがあなたには必要に思えた。
時間をかけ、肉体の細部を丹念に観察する。顔の表情から脚の爪先の色まで。そして肉体の中心にあるものはとても柔らかだった。萎えているからではなく、肉塊そのものがどこまでも封じられ、沈黙し、冷ややかで、まるでもうひとりの自分としてのあなたを嘲笑していた。まるで質量を失ったように虚ろな肉体の中心は、あなたの性の実体を不可解と言えるほど曖昧にしていた。


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