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銀の羊の数え歌
【純愛 恋愛小説】

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銀の羊の数え歌−8−-1

 十二時二十分。
この研修が始まってから、こんな遅い時間まで起きていたのは今回が初めてだ。
職員室から多目的ホールへと続く長い廊下には、非常口の緑と火災報知機の赤。そして医務室の明かりだけが寂しげに灯っている。
僕は長椅子に腰掛けたまま、ため息と一緒にゆっくりとうなだれた。ああ、なんて長い夜なんだろう、と思った。押し潰されそうな不安にこの静けさも手伝って、一分がとても長く感じる。
と、不意に暗がりを裂くように足元まで光が伸びてきて、僕は慌てて腰をあげた。
「あら、まだいたの?」
医務室から出てきた女の人が、僕の顔を見るなり、驚いたような声で言った。
畑野裕子さん。
三十代半ばの小柄な人で、この部屋の責任者でもある。彼女が夜勤じゃなかったらと考えると、ぞっとしてしまう。
「あの」
と、僕は声をしぼって言った。
「すみません。柊さんがやっぱり心配で」
畑野さんは、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、
「もう、いるんだったらノックしてくれればよかったのに」
と、ため息をついて笑った。
「いらっしゃい。あなたもびしょ濡れなんだから。その格好だと風邪ひくわよ」
医務室の中は、暖房がきいていてとても暖かかった。
わけの分からない薬品の並ぶ戸棚や、たくさんの難しそうな本が立てられた机、消毒液や湿布の独特な匂いに純白の清潔なタオル。 懐かしい光景だな、と思う。目に映るものは全て、学生時代に行った保健室そのものだ。 部屋の左手には、壁に沿うようにベッドが三つ並んでいた。その中で、一番奥の一つだけがクリーム色のカーテンに遮られている。
あの中で柊由良は眠っているのだろう。
救急車を呼ばなかったということは、大事には至らなかったということなんだろうけれど、本当に大丈夫なんだろうか。
「さぁ、今コーヒー入れるから、そこの椅子に座って。あ、そうそう。タオルあげなくちゃね」
コンロにやかんをのせると、畑野さんは自分よりも大きな戸棚の引き出しからバスタオルを一枚取り出して僕に放った。
「とにかく、洋服を脱いで干しておきましょう。代わりに着るもの。ここなら暖かいしTシャツとジャージでいいわよね。ちょっと隣りの部屋から適当にとってくるから、やかんの火を見ててね」
「すみません」
僕はペコリと頭を下げた。
「なんか、気を使わせてしまって」
「いいのよ。牧野君が柊さんを運んでくれなかったら大変なことになっていたかもしれないじゃない。私の力じゃとても彼女をおんぶするなんて無理だったわ」
鼻にしわを寄せて笑うと、畑野さんは足早に医務室から出て行った。数秒遅れて、隣りのドアの開く音が聞こえてくる。
僕は黙って丸椅子に腰掛けると、もらったバスタオルで濡れた髪の毛を拭いた。
そして、ふと手をとめて、部屋の隅へ首をねじ曲げた。
これだけ静かなのに、カーテンの中からは寝息さえも聞こえてこない。実際は、暖かな毛布にでもくるまって、ぐっすりと眠っているのだろう。しかし、あんな青白い顔の彼女を見てしまった後だからか、さっきから言葉に出来ない不安が、心臓のあたりでざわついてしかたがない。
倒れた柊由良をおぶって、やっとのこと寮までたどり着いたのが、今から三十分ほど前。 その間、とうとう彼女は目をあけることなく、顔色も元には戻らなかった。
長いため息が、もれた。
いったいどうしたんだ、と僕は思った。あれだけ元気だった柊由良が、何故、急に気を失ったりなんかしたんだろう。人間は、そんなに簡単に意識を手放したり出来るものなのだろうか。


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