炎上-1
「まいったな」
幸弘がミラーを気にしている。
「怖いわ」
玲奈も眉を寄せている。
久しぶりに二人で出かけたドライブの帰り道。彼らの乗るイタリア製コンパクトカーの後ろを、何が気に入らないのか軽自動車がベタ付けで煽っている。
街から少し離れた山中の狭い観光道路。あたりはすっかり日が暮れており、ほとんど街灯はないため暗くて視界が悪い。しかもタイトなコーナーが連続しているので、速度を上げる事は出来ない。
そんな状況の中、ハイビームとクラクションで威嚇しながらグイグイ迫ってくる。
ミラーいっぱいに写っている車体は下品な紫色で、ゴテゴテとしたエアロを大量に貼り付けてあり、芸術家である幸弘には、美的センスのある人間には思えなかった。
「先に行かせてやれればいいんだけど、道幅が狭くて、避けてやるスペースがないんだ。それに、ヘタに停車したら襲ってくるかも知れないし」
「通報した方がいいのかしら」
「そうだね、危険すぎる運転だ。いつ事故が起こっても……」
その時、軽が強引に対向車線にはみ出して幸弘たちを抜こうとした。
「おいおい」
道は緩やかな右カーブに差し掛かっている。右側は山肌になっているので、先の様子は見えない。
二台が横に並んだ時、ブラインドコーナーの先にヘッドライトの光がチラリと見えた。
「まずい」
幸弘はアクセルを緩め、ブレーキを踏んだ。前に出た軽も対向車に気付いたのか、急ハンドルで元の車線に戻ろうとした。しかし、エアロで無駄に重くなった車体を、細い前輪は支えきれなかった。
ギュルルルル……。
派手にタイヤを鳴らし、そのまま直進してしまう紫色の軽自動車。対向車が迫る。
ギャッ。
速度が少し落ちたところで、今度は逆に前輪が路面に噛みつき、後輪が横に滑ってスピンした。そして真横を向いたままゴロンと横転し、火花を散らしながら崖の方へ滑っていく。対向車がクラクションを鳴らしながら走り去っていった。
ガツッ、と道端の木に衝突し、軽はかろうじて崖下への転落を免れた。
幸弘は見通しの良い場所の路肩に車を止め、軽に向かって走った。
「ありがとうございました」
数日後。紫の軽自動車の運転手が、お礼をしたいと言っている、と警察から連絡を受けた幸弘は、市立病院に入院中の彼女を訪ねた。
幸弘は最初断ったのだが、どうしても会わなければ気が済まないらしい、と警察の人に説得され、お見舞いに行くことにしたのだ。
「大きなダメージはなさそうで、良かったですね」
「はい、あなたが車外に引っ張り出してくれたおかげだって先生に言われました。そうでないと、焼死していたかも知れないよ、って」
火の手の上がった軽自動車は、幸弘が彼女を引きずり出した直後に爆発炎上した。
荻野麗華（おぎの れいか）、と名乗ったその女は、事故の夜はボサボサの金髪に下手くそな厚化粧だったが、今はすっぴんでおとなしくベッドに寝ている。はっきりとは分からないが、意外に若い様だ。二十歳そこそこかもしれない。
「煽った相手に助けてもらうなんて、とんだマヌケですよね」
「いやあ、煽られた時は正直困ったけど、こうしてお話できたこと、なんだか嬉しいですよ」
幸弘のその言葉に嘘はなかった。
すみませんでした、と小さく頭を下げた麗華に、彼は微笑みかけた。
「それにしても、あなたはあんな乱暴なことをする人にはみえないんですけど、私が何か気に障ることをしてしまったんですか？」
幸弘がそう尋ねると、麗華は目を丸くして両手を広げ、激しく首を振った。
「違いますよ。全部私が悪いんです。のんびり走っているファミリーカーを見て、なんだか幸せそうだなあ、って思った瞬間、プチってなっちゃって……うまく言えないんですけど」
「なるほどねえ」
腕組みをして目をつぶり、幸弘は、ふう、っと息を吐いた。
「なんとなく、だけど分かりますよ。僕にもそういう感情を抱くときがあるから」
「ええっ、そんな風には見えませんよ？ すごく落ち着いてて穏やかで」
「自分に無い幸せを見せられたとき、心穏やかではいられないというのは誰しもあることじゃないですかねえ」
優しい目で微笑む幸弘から、麗華は何故か目を逸らした。
「あ、そうだ、怪我させちゃったんでしょ？ 先生から聞いたら有名なピアニストらしいじゃないですか。それなのに手に怪我させちゃって」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。表面を切っただけだから。なんの影響もありません」
軽く指を動かして見せた。
「よかった……」
心からの言葉に、幸弘は少し感動してしまった。やんちゃはしていても、心根は優しい子のようだ。ふくよかな丸顔も可愛らしい。何が彼女を荒れさせてしまったのだろう。
幸弘の考えていることが伝わったかの様に、麗華がポツリ、と話し始めた。
「私もね、ピアノやってたんですよ。ピアニストになりたいって本気で考えてた。自分なんかがなれるわけないのに、バッカみたいでしょ」
「なぜそう思うんですか？」
「だって私、こんな感じですよ？ 親も同じ。親戚にもらったピアノだってボロボロで、出ない音いっぱいあったし。新しいのなんて絶対買ってくれないし」
自分は恵まれている、と幸弘は思った。裕福ではなかったとはいえ、ピアノは買ってもらえたし、安くはないレッスン代もなんとか出してくれた。この子だって環境さえあれば。もしかしたら素質があったかも知れないのに。