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気配
【スポーツ 官能小説】

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気配-15

 井野の下衆さに、下衆な笑いが起こり、
「バカか? 井野。よく見ろよ、勝って有名になる度にオンナの顔になってるじゃねえか。とっくに破られてるぞ」
「まじっすかー。あーあ、アイ様にあんなことやこんなことしてる奴、誰なんやろうなぁ、羨ましい」
「まあ一流ジョッキーでいらっしゃるからな。気も相当強いやろうし、ドSちゃうか」
「……そう見せかけて、ドMやったら……、やっべ、勃ってくる」
 最終レースのパドックが始まっている。
 騎乗がなければ帰ればいいのに、彼らはダラダラと下世話な話をしている。征嗣は井野を威圧してすまないと思えてきた。
「勃たすな勃たすな。……ていうか、ナマのアイ様拝見できんのも、そうそうなくなるんちゃうか? これからもガンガン勝ちよるやろ。もうすぐ違う世界に行かはる」
「なんだよ、それじゃあ家で競馬中継見てんのと変わんねーじゃん」
 その一言で、下衆だった笑い声に、僅かに悲哀が漂った。
「……まあ、俺らはお呼びでないし、行く気にもなれん世界や」
 そうしたほうがいい。愛衣は違う世界に漂う幻惑を追求し続けている。そこは楽園ではない。捕虜収容所に近い。一度でも囚えられると逃れるのは容易ではないのだ。
 こうやって一つでも騎乗があって競馬場へ来られるだけマシかもしれなかった。騎乗ゼロで待機している者もいる。リーディングトップクラスなら、一億、二億、数億稼いでいてもおかしくない一方で、一年頑張ったって一つも勝てない奴もいる。調教手当も微々たるもの、勝たなければ稼げない、そもそも乗らなければ全く稼げない仕組みになっている。下を見ても仕方がない、なんていう言葉のほうが甘っちょろい。
 それでも愛衣のいる世界には行かないほうがいい。征嗣はそう断言できた。
 群走する草食動物の習性を利用して考え出された娯楽が競馬である。馬たちは、群れから遅れまいと懸命に走っている。後ろから迫り来る野獣に肉を喰らわれないように。オーバータイムになるような馬は、レースを諦めたのではない。生命を諦めたのだ――
 そして、見えない牙に追われてなり振り構わず猛進する悲しい生き物の背にしがみついている、更に悲しい生き物が騎手だ。
 芝に叩きつけられて、呻きつつ救急車を待っていた時、スタンドから声が聞こえた。歓喜の声が。
 やったー? よっしゃー?
 僅かな拍子で簡単に死の淵に転げ落ちてしまう騎手。人間によって進化を調整された、巨大な肉叢を頼りない細脚で支え、一本でも折れたら心臓が止まってしまう体のサラブレッド。そんなのを一箇所に集め、金を賭け、勝ち負けを競っている姿を見て熱狂している。一年で一番の特別な狂宴には、十万人集まるのも当然だった。
 征嗣は改めて井野のほか、部屋の連中を見回した。いい歳をした男たちだが、おしなべてチビだ。小さいオッサンがたくさんいる。
 何十倍もの競争率を勝ち抜いて競馬学校へ入った時から、食いたいものを一切食えないで騎手を続ける。ひもじい思いをして、礼儀だの規律だののもとで、ほうぼうに頭を下げて惨めな思いもした上で、命を賭して乗る。一番最初にゴール板を抜けた時の快感は、それはたまらない。死線をかいくぐって、生きている喜びを実感しているからだ。こいつらも一度は勝っているから――勝ってしまっているから、少しでも、一秒でも長く、ここで騎手の格好をして居座りたいのだ。
 大レースになればなるほど、残酷さは増す。悦楽の大きさも途方もないものになる。一度味わったら逃れられない……、自分は愛衣をそこへ連れて行った。女神は己が生命を確認するために、これからも献納を求めにやって来るだろう。
 程なくして行われた最終レースも白人騎手が勝ち、部屋の中に溜息をつかせた。今日一度も大部屋に入ってこなかった彼は、勝てば勝つほど迎えなければならない死闘が、来週もその先も控えていることをおくびにも出さず、涼し気な顔で馬を労っていた。






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