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気配
【スポーツ 官能小説】

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気配-14

 それからの愛衣は日に日に、一着になった時の悦楽がなければ生きることができない、そんな妄執を感じさせるようになっていった。
 かつての讐敵は、結局ダービーを勝てぬまま、翌年の春に引退を決めた。退院していた征嗣も引退式に呼ばれた。それが二度目の、そして最後の会話だった。
「よう……、大丈夫か?」
 驚いたことに、小柴さん、小柴さん、と瀬田が号泣していたので苦笑していると、征嗣を見つけて声をかけてきた。
「……大丈夫なように見えるか?」
 声を荒げるでもなく、惨めさに萎縮するでもなく、もう絶対に勝てない場所へ行く同期を見て、全く凪いだ心で答えることができた。小柴は笑って、
「そうだな。……最後のレースは六着だった。瀬田の野郎、あんだけ泣くなら、最後くらい勝たせろよ」
 つられて笑うと、
「ああ、見てたぜ。オッサンがジタバタしてる、みっともねえ追い方をよ」
「そうか」
 一年目の、あの必勝法を語った時を彷彿とさせる、あどけない笑みだった。「二年前に引退すりゃよかった。晩節を汚したよ」
「意外と難しい言葉知ってるじゃねえか。……俺はもうちょっと、汚すさ」
「いや、お前は――」
 小柴が言いかけた時、少し遠くで喝采が起こった。若手騎手たちが、やっぱり愛衣みたいな子が渡したほうが様になるだろうと、やけに馬鹿でかい花束を持たせ、ニ、シ、ノ、ニ、シ、ノ、と囃し立てていた。囲まれて、何で私なのよー、と顔を赤くして笑っている。久しぶりに衆目の中で見る愛衣は燦爛としていた。
「去年のダービーはやられたよ」
「……。ああ、それも見てた」
 小柴は笑顔のまま愛衣を見やっていた。
「三年目でダービー制覇か……、たまんねえなあ。『ちょっと醤油取ってー』って言われて、ヒョイと取っちまうように持ってかれた。……ったく、人がどんだけ醤油なしで飯食ってきたと思ってんだよ」
 愛衣にとってはダービーが醤油――あまりに言い得て妙で、声を上げて笑ってしまった。
「オッサンがあんまり若いネーチャンにひがむな。見苦しいぜ」
「ほんと、やられたよ」
 頭を掻いた小柴は、征嗣を見ずに、「杉島。お前はスゲえな」
 笑いが攣きつったが何とか耐えて、小柴を見た。自分自身を嘲笑しているような顔を浮かべていたから、何も言えなかった。
「――お前こそ、若いネーチャンを苦しめんなよ。お前が苦しむぜ」
 結局小柴は一度も謝らなかった。謝って欲しいならば、俺は復帰など目指してはいないと自然に納得できたし、最後の言葉が謝罪と同義のように思えた。競馬界を去った小柴とは、それ以来話していない。
 最終的に、ターフに戻るまで三年半かかった。
 惨憺たる結果だったが、何とか復帰騎乗を果たしたその夜、恵美に離婚を申し出られた。理由を問うと、
「これからの征嗣クンは、きっと私が好きな征嗣クンではなくなるから」
 と言った。征嗣は抵抗することなく判を押した。
 何人もの騎手が去っていた。定年により厩舎を解散した田野山も、程なくして膵癌で他界しており、懇意にしていた馬主も調教師も数少なくなっていた。つまり、征嗣は騎乗依頼が落馬前に比べて激減した。
 そこへきて、やはりブランクが重くのしかかってきた。勘は冴えていても、淒ぶる馬を制御できないことが多くなった。失敗騎乗を重ねる度に依頼が減っていく。――明らかに、愛衣の勝利数と反比例していた。中央開催の裏番組を求めてローカルに下ることが多くなり、重賞とは殆ど縁がなくなった。
 それでも愛衣はまだ教えを請いにやって来る。迫る愛衣の瞳の中に執念じみたものを感じて背筋が凍ごるのだが、女神の肢体はあまりに美しく、負けが混むほど、抗うことはできなかった。進む毎に深くなりゆく泥濘のようなセックスだった。
 小柴が言ったのは、そして恵美が言ったのは、これだったのかと諒解できた。
 ――征嗣の適当な返事に、井野は、
「そうっなんすか。……っていうか、昔は田舎臭くても、今のこの可愛さはたまらんですよねぇ。アイ様の彼氏になる奴とかって、どんなんやろうなぁ」
 と、欠伸をしながら伸びをした。
「なんやったっけ、テレビ出た時のタレントの、えー誰や……、なんか、そいつと付き合ってるんやなかったっけ?」
 モニター前の騎手が言った。
「あれ? どっかのオーナーに紹介されたボンボンとかじゃなかったか?」
「そうなんか? ……まー、ウソかホンマかわからんこと言われよるやろからな、有名人は。何が正解かよーわからんな」
「まあ、競馬関係者じゃなかったらいいんでね? 同業やったら、ブチのめすことになるしな」
 彼らの話を聞きながら、征嗣は改めて煙草に火を点けた。
「ってか、アイ様彼氏おらん、って雑誌かなんかで言うてましたけど。彼氏になれたら……エッロいことできるんですよね? たまらんなぁ……、この子の処女膜破ってやりたいっす」


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