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気配
【スポーツ 官能小説】

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気配-12

 初めてのダービー一番人気だったが、不思議と気分は落ち着いていた。恵美のおかげ――、と言いたかったが、今日は西で三鞍乗ってまるでダメだったお姫様の顔が頭にチラついた。木馬に手をつき、丸出しにしたヒップを上げて振り返った顔が。
(スケベエがマシなジョッキーか……田野山先生もお門違いだったな)
 不埒なことを考えていたほうがむしろ緊張をほぐれた。一年のうち今日だけは異なるホースマンたちの一種独特な空気も、簡単に暴動が起こりそうなまでに高揚した観客の目も、愛衣の顔が全て無力化してくれる。
 発馬したとき、土曜の第一レースと何が違うかわからないくらいだった。真ん中枠からスタートした征嗣は、鼻歌を口ずさみつつ、ココがいい、と断じた馬に任せて一コーナーを迎えた。前に壁。馬群を引き連れて二馬身前を小柴が駆けている。向正面で股間を覗いて確認すると、瀬田は後方二番手を進んでいた。思いのほか下げているが、前目で折り合われない限り影響はない。
 三コーナー手前で始まる下り坂で、ジリジリと前三頭が小柴との距離を詰めていく。慌てなくても、たとえ半馬身だろうが直線を向くまでハナにいればいいのだから、迫られても小柴は動かない――、その通りだった。征嗣の馬が、前の壁を嫌って前に行きたそうにしている。少し早い。三頭の外に出して四コーナーを回っていくより、ギリギリまで三つの馬尻を見せて焦らした方が鬼脚を繰り出せる馬だから、このまま直線を迎えたい。外上がんぞ――曲線を跨いで聞こえてきた瀬田の声は、道中後ろ過ぎたのか、まだ遠い。早めに来られるのが最も危惧された事態だったが、ズブい馬だから可能性は低いと思っていた。
 小柴が直線を向くと歓声が最高潮に達した。それでも征嗣は冷静だった。前三頭が一杯に追い始めて、少し距離が空いたが心配ない。なぜならば――
 三頭が並んで外に出てきた。正しくは小柴が下がってきたのを避けたのだ。ここで小柴は行くしかない、と思ったら鞭を振り上げて追い始めた。征嗣が指示していないのに、馬が徐々に外へと向き始める。我慢しきれなくなって、自ら壁の外へ出ようとしているのだ。瀬田は大外を駆けている筈、とターフビジョンを見ると、確かに緑の勝負服は一番外を取っていた。大回りした分、まだ後ろから数えたほうが早い位置にいる。
 こうだろう、と思って確認すると全てが正しかった。未来を読んでいるのではないかと自惚れてしてしまいそうだ。きっと神経が最高に研ぎ澄まされているからだ。レースを完成させるピースは残り一つ。
 すると左端に黒い靄が見えた。前の馬が蹴り上げた芝土が飛んだのかと思ったが、ゴーグルを一つ外して視界を洗っても、相変わらず端にチラチラと見える。
 何だ? その方を見やると、最内を逃げていた鞍上から発せられていて、征嗣が眼差しを向けた瞬間、右手の手のひらを見せられた。
 待て?
 征嗣はサウナの中で見た、汗や涙……洟水も泡唾も吐いていたかもしれない小柴の面貌を思い出した。今日に至っても、血液が流れていないかのような、始終青白い顔をしていた……。
 うるせえ、ふざけんな。
 お前も手の内だ。三秒の間にぶっちぎってやる――俺だって勝ってみたいに決まってるだろ。
 これはダービーだ、愛衣を勝たせた未勝利戦と一緒にするな。まだ一勝もできない馬を勝たせてやるのとも、負けさせるのとも、訳が違うんだ。毎年やってんのに、現役騎手は百三十人もいるのに、勝ったことある奴は十人もいないんだぞ。他のどこに、十万人もの観客を集める勝負事があるってんだ。いいか、これはダービーなんだ。
 このタイミングで馬がハミを……、と思うや、グイッと手綱が前に引っ張られた。右鞭を一発送り込む。気合をつけたのではない。もうぶっとばしていいだろ、と馬が訊いているので、いいよ、と答えてやっただけだ。
 合図を得た馬の加速は素晴らしかった。想定以上に、速い、と体感できた。一馬身ほどでゴールするイメージだったが、この手応えなら歴史的着差が予感できた。
 想定以上に? ――想定外に?
 急激に、黒い靄が征嗣の視界じゅうへ垂れ込めてきた。
 鞭を持ち替えろ――
 誰だ?
 征嗣が本能的に鞭を持ち替えようとした時、三頭置いた向こう、最内で何が起こるのか分かったが、閃くのが遅かった。
 無音になった。
「こ、し……!」
 閑寂の中、鞭を落とした。次の瞬間、小柴がラチを嫌っている馬の左肩を手で叩いて外にヨレたかと思うと、玉突きで三頭いっぺんに眼前に出てきた。その外へ逃げなければならないが、手綱を手繰る時間はなく、鞭は手元になかった。最高速へダッシュしようとしていた愛馬が驚いて、前脚を突っ張った。


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