第30話-1
ようやくバスが到着し、社員達が続々とバスを降りていく。
そんな中、菜穂は天野に肩を抱かれるようにして出て来た。
もちろんすでに衣服は身に着けていたが、足元が覚束ない。
数分前に快感絶頂に達したばかりの菜穂の身体は、まだその余韻から冷めていなかった。
腰が抜けてしまったようにガクガクと震え、立っているのもやっとの状態。
そんな菜穂を見つけて、夫の智明が心配そうに声を掛けてきた。
「お、おい菜穂、どうしたんだ?」
「ハハッ、小溝君心配ないよ、奥さんは少し車酔いしてしまったみたいでね。大丈夫、外の空気を吸えばすぐに良くなるさ。」
「そ、そうですか。」
どうやらバスの一番後ろの席に座っていた智明は、菜穂に何があったのか、全く気付いていなかったようだ。
「すみません運転手さん、お茶をこぼしちゃったみたいで、席が少しが汚れてしまったんですが。」
「え、あ〜ハハッ……大丈夫ですよ、私が後で掃除しますんで。」
天野は菜穂を智明に返すと、運転手とニヤニヤと笑いながら会話をしていた。
社員の中にも、何人かあの行為に気付いていた者達は菜穂の方にチラチラと視線を向けていた。
しかし菜穂が智明の妻だという事は、ここにいる全員が知っている事だ。
それにも拘わらず、菜穂が天野に辱められている事に気付いていた者達が皆、口を出すことをもせずに、見て見ぬふりをしていたのは、天野がこの会社の社長の息子であるからだ。
天野部長のやっている事に、文句の一つでも付けてしまえば、自分の立場がどうなってしまうのか、社員達は皆よく知っているのだ。
その後、駐車場で幹事の近藤が挨拶を終えると、そこで社員達は解散となった。
そして天野は再び智明と菜穂の方に来て声を掛けてきた。
「奥さん、今回の旅行は貴女のお陰で本当に楽しかった。」
「……は、はい……」
「それと小溝君、近い内に君に良い報告ができると思う。期待して待っていてくれたまえ。」
「え、あ、はい!ありがとうございます!」
「君は奥さんにもっと感謝した方がいいぞ。君の奥さんは本当に素晴らしい、他の幹部の皆さんにも非常に好印象だった。おそらく人事部長としての私の意見にも、皆さん頷いてくれると思う。」
「そ、そうですか。」
「という訳だから、これからも我が社のために頑張ってくれたまえよ。」
「はい!一生懸命頑張ります!」
「ハハッ、その意気だよ小溝君。……では奥さん、また。」
天野は最後に意味深な言葉を菜穂に掛けると、智明が深々と頭を下げる中、ご機嫌な様子で帰っていった。
智明は帰りの車の中で、嬉しそうにしていた。
「天野部長、良い報告を期待していてくれだってさ。これで本当に正社員としての採用が決まってくれればいいな。
酔い潰れて朝起きた時にはもう駄目だと思ったんだけどさ、俺が居ない間菜穂が頑張ってくれてたんだな。ありがとう菜穂、本当に菜穂のお陰だよ。」
「……う、うん……。」
しかし智明と違って菜穂の表情には明らかに元気がなかった。
「ん?菜穂どうした?」
「……ううん、ごめん、少し疲れてるの。」
「そうか、昨日は遅くまで部長達の相手をしてくれていたんだもんな。家に着いたら起こしてあげるから、寝ててもいいよ。」
「うん、そうする。」
車の助手席から窓の外を眺めながら、菜穂はこっそりと涙を流していた。
この二日間で、菜穂は女として守らなければいけないもの、大事なものを捨ててしまった。
その罪悪感と悲しみに、涙が止まらなかった。
しかし、機嫌よく車のハンドルを握る夫の智明は、菜穂のその涙に気付くことはなかった。
そして後日、会社から智明が大喜びで帰ってきた。
「菜穂ぉ!やったよ!本採用だよ!決まったよ!」
そう言って智明は晩御飯の用意をしていたエプロン姿の菜穂に抱き付いてきた。
「ほ、ほんとに?」
「本当だよ、今日天野部長から正式に決まったって言われたんだ。」
「そ、そっか……。」
「あーやっと苦労が報われたよ、長ったなぁ。菜穂も嬉しいだろう?」
「……うん、嬉しい。良かったね、本当に良かったね。」
「ありがとう菜穂。これも菜穂のお陰だよ。天野部長も菜穂に宜しくと仰っていたよ。」
「……。」
心の底から嬉しそうな智明。
智明のこんな笑顔を見るのは本当に久しぶりだった。
「そろそろ給料も入るし、何か菜穂の欲しい物を買ってあげるよ、ここ2年は結婚記念日にも何もしてあげられなかったしな。
あ、それか久しぶりに家族で旅行に行くのもいいな。子供達も喜ぶだろうなぁ。アハハッ、とにかく、こんなに嬉しい事はないよ。これからは安心してこの家で暮らしていけるんだ。家族でさ。」
菜穂は智明の表情を見ながら、心の中で自分に言い聞かせていた。
――智明があんなに幸せそうに喜んでくれている。家族もこれできっと幸せになれる。これで良かったのよ……これで……――