第4話-1
「フフッ、よしっ、しっかり味染みてる。」
キッチンで煮物の味見をしていた菜穂は上機嫌だった。
今日作った筑前煮は、夫である智明の大好物だ。
「子供達には先に食べさせて、私は智明と一緒に食べようかな。」
新しい会社に働きに出だしてからというもの、智明の表情は生き生きしているように見えた。
相変わらず多忙である事には変わりはなかったが、先が見えなかったここ2年程の状況とはやはり違う。
契約社員とは言え、明確な目標を持って働く事に、智明は喜びを感じているのだろう。
そして智明が元気になってくれた事は、当然菜穂にとっても嬉しい事だった。
安定した生活とか収入とか、そういう心配はもちろんしてきたけれど、何よりも智明が元気でいてくれる事が、菜穂にとっては大切な事だったのだ。
仕事に関しても、智明は手応えを感じていると充実した顔で菜穂に話してくれた。
やる事は多いけど、新しい環境には慣れてきたし、やり甲斐のある仕事だよと。
あとは本採用が決まってくれさえすれば万々歳だ。
どうかこのまま採用して貰えますようにと、菜穂は毎日のように祈っていた。
♪〜……♪〜……
子供達を寝かせた菜穂が1人で智明の帰りを待っていると、リビングにある電話の呼び出し音が鳴った。
「はい、小溝でございます。あっ近藤さん……」
電話を掛けてきたのは近藤だった。
「小溝はまだ帰って来てない?」
「はい、もうすぐ帰るってさっきメールはあったんですけど。どうしましょう、折り返し連絡するように伝えましょうか?それとも急用でしたら……」
「いや、いいんだよ。今回は小溝じゃなくて菜穂ちゃんにお願いしたい事があってね。」
「私に……ですか?」
「うん。まぁその前に、どう?菜穂ちゃんは最近元気にしてる?」
「ぇ、あ、はい、お陰様まで。あの、智明の仕事の事で色々と動いていただいて、近藤さんにはもう、なんとお礼を言ったらいいか……本当にありがとうございます。」
「ハハッ、そんな堅い言い方しなくてもいいのに。小溝と俺は同期で長い付き合いだし、それにほら……菜穂ちゃんと俺は良い友達だろ?困った時はお互い様さ。」
「近藤さん……」
「俺も2人の力になれたなら嬉しいよ。」
「ありがとうございます、本当に。」
かつてお付き合いを断ってしまった相手であるにも関わらず、自分達家族のために協力してくれた近藤に、菜穂は心から感謝していた。
今回の件で、菜穂の中の近藤のイメージは大きく変わりつつあった。
智明と知り合う前、菜穂と近藤は付き合う寸前の関係にまでなっていた。
当時容姿端麗な近藤に、若かった菜穂は男性的な魅力を十分に感じていた。
何回か2人で食事に行った事もあったし、このまま近藤さんと付き合ってもいいかもとさえ思っていたのだ。
しかし、ある日2人でとあるバーでお酒を飲んだ後の事だ。近藤は酔った菜穂をホテルに連れ込もうとしたのだ。まだ付き合ってもいないのに。
もちろん大人の男女が2人でお酒を飲めば、そういう流れになるのはあり得る事だ。
だが近藤は強引だった。
菜穂は乗り気ではなく「今日はもう帰らないと」と伝えたにも関わらず、近藤は手を引っ張るようしてホテルの中に連れ込んだ。
そんな近藤の事が菜穂は急に怖くなって、近藤がシャワーを浴びている間にホテルから逃げ出したのだ。
後日近藤は謝ってきたが、その時には菜穂の気持ちは完全に冷めきってしまっていた。
そしてその後近藤には告白されたものの、その時の印象が強く残ってしまっていて、結局菜穂はお付き合いを断ったのだ。
その時、近藤には「どうしてなんだ!?どうして俺じゃ駄目なんだ!?」と強い口調で言われたのを覚えている。
だから正直菜穂は、智明と結婚した自分の事を、近藤は快く思っていないのではないかと考えていた。
しかしそれは自分の思い違いだったみたいだと、菜穂は今感じていた。
過去に恋愛関係では色々あったけれど、智明と近藤さんは良き友達であり、本当は近藤さんは優しくて良い人なんだと。
「それでね菜穂ちゃん、そのお願いなんだけど、実は今度うちの会社で社員旅行があるんだけどさ、それに菜穂ちゃんも参加してほしいんだよね。」
「社員旅行……?」
「うん、うち社員旅行は毎年やってるんだけど、社員の家族も自由に参加していい事になってるんだよ。」
「自由参加、ですか。」
「そ、自由参加なんだけど、実は天野さんが菜穂ちゃんにもぜひ来てほしいって言ってるんだよ。」
「天野部長がですか……?」
「うん。いやね、他にも社内のお偉いさんが沢山来るし、まだ契約社員の小溝はその人たちに夫婦で仲の良い所を見せておいた方がいいんじゃないかって天野さんが。その方が本採用もスムーズに行くだろうって。」
「そ、そうなんですか。」
「まぁ印象の問題なんだけどね。実はお偉いさんの中にはこれ以上中途採用で社員を増やすことをあまり良く思っていない人もいてね。最近は人事部だけで決めれない事も多くなってきてるからさ。分かるでしょ?」
「は、はい。」
「だからぜひ参加してほしいんだよ。」
「分かりました。では智明と一度話してみます。」
「うん、前向きに検討しておいてね。っていうか絶対来た方がいいよ。智明のためにもね。」
「そうですよね、分かりました。近藤さん、ありがとうございます、色々と助言して頂いて。」
「ハハッ、気にしなくていいよ。俺も智明には上手くいってほしいからさ。じゃあ頼むね。」