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忘れ得ぬ夢〜浅葱色の恋物語〜
【女性向け 官能小説】

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たどり着いた場所-7

 明くる朝、ベッドから降りてハンガーに掛けられていたブラウスを手に取った時、シーツに身を起こした神村が私に向かって静かに言った。
「僕にやらせて」
 彼は何も身につけないまま私に近づき、ブラウスを羽織らせると、ゆっくりと一番上のボタンに手を掛けた。
 そして神村は黙ったまま最後までボタンをかけ終わると、一つ小さなため息をついて振り返り、ベッドに残された下着を穿き、壁に掛かった自分の服を身につけ始めた。私もそれから何も言わずにショーツを穿き、脱いでいた服を着直した。


 私はスーツ姿に戻った神村の、その首に結ばれた真新しいネクタイを軽く整え、その目をじっと見つめながら言った。「わたし、今月いっぱいで仕事を辞めることに決めました」
 神村は驚いた風でもなくふっと微笑んで、私のセーターの肩に着いていた糸くずを払いながら言った。
「そう。彼の元に帰るんだね」
 私はこくんと頷いた。
「あなたも、ご家族の元に」
 神村は少し寂しげに笑った。「そうだね。僕の帰るところはそこしかないね」
 しばらく黙ったまま温かい光の宿った瞳で私の目を見ていた神村は、少し顔をうつむけて決心したように言った。「シヅ子ちゃん。最後に大切な話があるんだ」


 神村はソファに私を座らせ、センターテーブルを挟んで相対した。
 彼は薄い青緑色の封筒をテーブルに置いた。その角は少しへたって折れ曲がっていた。
「いいかい? シヅ子ちゃん、よく聞くんだよ」
 私は不安げな色を隠そうともせず、向き合ったその男性に目を向けた。
「僕には君の身体を守る義務があった。でも、今までそれをしてこなかった」
「え? どういうことですか?」
「君と愛し合う時、僕はずっと避妊をしてこなかった。男として失格だ」神村は肩をすぼめ、うつむいた。
 私は膝に揃えて置いた手を思わず握りしめた。
「大阪に帰ったら、すぐに婦人科に行って、診察してもらいなさい」
 彼はテーブルに置いた封筒を私の前に移動させた。
「そ、そんな、神村さん」慌てて顔を上げた私の言葉を遮って、神村は強い口調で言った。「これは上司としての命令。君に断る権利はない!」
「神村さん……」
「もし、これまでの僕との行為で君が妊娠していたなら、すぐに連絡してくれ」神村は深い色の宿った瞳をこちらに向けて続けた。「僕は君の愛する彼に、これまでの君との関係を包み隠さず打ち明けて、全力で謝る。その時殴られても蹴られても構わない。そして彼の許しが得られたなら君の妊娠中絶について話し合うつもりだ」

 私はしばらく目を上げることも口を開くこともできなかった。

 神村は出し抜けにテーブルに手をついて深々と頭を下げた。「すまない。本当はもう二度と君に会ってはならないんだが、君の気持ちも身体も完全に元通りにして彼の元に帰るようにしてあげるのが僕の義務だし罪滅ぼしとも言える。だからもし妊娠していたら必ず責任を取る」

 私はようやく顔を上げた。
「……わかりました」
 神村もゆっくりと顔を上げた。
「診察の結果は、すぐに必ず貴男に連絡します」
「うん。そうしてくれるとありがたい」神村は小さくほっとため息をついた。

「わたし、もうたぶん一生不倫することはないと思います」私はぽつりと言った。
「……」
「あなたとの関係は、わたしにとってもやっぱり過ち。二度とやってはならないこと。つき合ってる彼がいてもいなくても」
「その通りだね……」
「貴男も、もう二度とわたしのことは思い出さないで」私はまたうつむき、テーブルに置かれた青緑色の封筒に視線を落とした。

「いや。忘れない」神村は決意したように言った。
 私は思わず目を上げて神村の顔を見た。

 神村は真剣な顔で私の目を見つめ返し、はっきりとした口調で言った。「忘れてしまったら、僕はまた同じ過ちを犯してしまう」
「神村さん……」
 そして彼は一転優しい口調で躊躇いがちに言った。「君も忘れないで欲しい。彼の手を永遠に離さなくて済むように」

 私は観念したように言った。「わかりました」

 神村は立ち上がった。「さあ、君は先にここを出なさい。僕と一緒にいたことが発覚しないように」
 私はテーブルの封筒を手にとって立ち上がった。
「今まで、ありがとうございました」
 そして神村に向かって深々と頭を下げた。

 部屋の狭い入り口のドアの前に立った時、私の胸の中から、突然熱い塊が喉元まで上がってきた。そしてこらえていた涙が堰を切ったように私の双眸からあふれ出し、ぱたぱたと音を立てて床に落ちた。

 いきなり神村が私の身体を背中から抱きしめた。苦しいぐらいに固く、お互いの最後の温かさを確かめるように。
 彼は背後から私の耳に口を近づけ、少し上ずった声で小さく言った。
「しあわせに……なるんだよ」

 いつまでも私の身体を放そうとしない神村は、まるで迷った子犬のように細かく震えていた。


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