笛の音 ２．-28
「誰が」
舌打ちが出たが走る車から飛び降りるわけにはいかない。これからホテルに連行され、また思う存分嬲られるのだ。
背後に気配がした。振り返らなくても分かる。外套を着た色白の痩男が、両手を左右に伸ばし、後部座席の真ん中で足を組んで横柄に座っていた。取り憑くなら、もっと勤勉に毎回出てきてくれればいいのにな。有紗は何故か可笑しさを覚えて、信号待ちの間、車窓から射し込む街の灯りに照らされた口端を上げた。
叶うなら対向に停まっているあの大きなトラックを、猛スピードでベンツに突っ込ませて欲しい。なのに、何故今日はフルートすら持ってないのか。
まだ笛の音は聞こえて来ない。猛烈に虚しい。
ローマ字で書かれた表札は知らない苗字だった。当たり前だ。かつて住んだ家を見上げていると、門扉の中で放し飼いにしてもらっているゴールデンレトリーバーがトコトコやってきて満面の笑顔で有紗を歓迎した。太い尾が左右に振られている。格子の間から手を差し出すと、顎の下のふっくらとした毛並みを擦りつけて目を細めた。よかった。この家に住んで、幸せそうで何よりだ。有紗は微笑みを返すと門の前から去った。名残を惜しんだ彼はクルリと回ってから一声吠えた。
朝、出勤ルートに従って秋葉原までやって来ると普段とは逆を行く山手線に乗り換えた。上野は騒がしそうだったから、そのまま日暮里まで行き、それでも多くの人が行き交っているコンコースで会社に連絡を入れた。大型更改のカットオーバーはまだ先で繁忙ではないとはいえ、たとえまだ二年目の要員であっても突然休まれたら迷惑がかかるだろう。だが有紗はホームに入ってきた常磐線に乗って少し揺られただけで、すぐに後ろめたさを忘れた。もうこの程度の嘘では疚しさを何とも思わぬ自分が笑える。上野を目指して反対の線路を走る電車は車内が真っ黒に見えるほど人が詰まっているのに、有紗の乗る電車は非常に空いていた。スカイツリーに見送られ、荒川の長い鉄橋を渡って東京を抜け出した。次の駅は松戸だった。降りてみようかと思ったが腰を上げなかった。駅前の街並みを知らない。松戸は――降りたことがないから、行きたい所も行くべき所もない。
有紗は近くと遠くで流れる速度が異なる景色を漫然と眺めながら電車に揺られ続けた。茨城から出てきたのは車に乗せられてだった。だからこの辺りの常磐線には乗ったことはない。十七歳まで暮らした鷹揚な風景は、まだ窓の外に広がってこない。本当に線路は、この狭々こましい街並みからあの風景へ繋がっているのかと疑ぐられてくる。
普通列車はたくさんの駅に止まった。途中で登校する女子高生の集団を目にしたが、今、電車に乗っていたのでは間違いなく遅刻だ。しかし彼女たちに慌てた様子はなく、楽しそうに喋って、ギャハハと下品な歓声を発している。ああして周囲を気にせず笑えるのだから、あの子達は自分に比べたらきっと純真だ。
そんな二時間が過ぎて水戸に着いた。駅を降りてタクシー乗り場へ向かう途中、ファーストフード店が目に入った。改装されて綺麗になっている。ということは想い出の席はもう無いかな。懐かしみながらタクシーに乗り、かつての自宅近くにやってきたのだった。
電車で来ても良かったのだが、ＪＲに思いの外長く乗ったことに疲れた。この時間を彼に強いようとしていたのか。かつて住んだ家に特別用事があって来たわけではなかったし、まさにその通り来ても何もなかった。思いがけない嬉しさは、幸せに暮らしている愛嬌たっぷりのレトリーバー君と知り合えたことくらいだ。有紗は家の近くの公園の側を通るのを避け、遠回りをして幹線道路に戻るとタクシーを停めた。
「水族館まで」
そう告げると、窓の外をぼんやり眺め始めた。道中運転手は何も話しかけなかった。水戸市街を抜けると国道沿いに田畑が見えてくる。風景は全く変わっていない。東京と違ってそう劇的に変わるわけではない。張り切った浴衣姿で自転車の後ろでしがみついていた川沿い道は田畑の向こうだ。運転手に言ってその道を走ってもらおうかとも思ったが、何という名前の道かも知らないし、初老の運転手は大しておしゃべりが好きな人でもないらしく寡黙に有紗を海まで導いていた。ひょっとしたら、こんな平日の昼に一人で海沿いの水族館を目指す物思いの女の行く末を案じているのかもしれなかった。
タクシーは敷地内に入り、ロータリーをぐるりと回ってから水族館の入口の一番近い所で停められた。海の匂いがして、頭上には澄んだ青空が広がっていた。津波の被害を受けた筈だが、一見しても爪跡は見当たらなかった。どこかの学校の遠足なのか、大型バスから降りてきた小学生たちが歓声を上げながら一旦入口前の広場に整列させられていた。有紗は今しがた転回してきたロータリーに続く道を歩いて行った。途中で脇道を逸れていく。地震のせいだろうか、昔に比べて整備されているような気がする。木立を抜けると川が見えてきた。ここまで冷静に風景を眺めていた有紗だったが、身構えていても急に胸に刺すような痛みが走った。それでも足を踏み出して先へと歩いて行く。行く手に見えてくる小さな駐車場。今日は車は三台しか停まっていない。一台は大きな熊手を積んだ軽トラで、公園の手入れをしに来た業者だろう。近づいていくと軽トラの陰に階段を見つけた。