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遠い行進
【その他 官能小説】

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その(4)-1

 飲み直す気持ちはなかったが、ホテルへ戻る気にもなれず、夜の街を歩いた。少し酔ってはいたが足取りはしっかりしている。
 繁華街の喧騒はきらびやかなネオンの彩りと文字が交錯して夜更けに向かって流れていた。

 妖しげな男が近寄ってきて、小声で何か言い、小指を立てて用件を示した。聞き流して手を振ると、
「若いピチピチ。安くしときますよ」
さらに歩き続けていると舌打ちをして離れていった。


 番組の収録が終わり、向井を先頭にしたスタッフの酒席が設けられた。
審査中に向井に一目置く発言をしたこともあって、向井は上機嫌だった。何度か酒を注ぎにきて、
「これからの歌謡界はーー」と論じた。
 数多くの醜聞を耳にしていたにもかかわらず、会話を交わしていても特に嫌悪は感じなかった。酒を飲み、大声で笑い、そのあまりにも屈託のなさ故か、向井の印象はひどく薄く感じられた。

「島野くんの歌は新しい色を持ってますよ」
彼は他のスタッフに言い、賛同を得ると自らも頷いた。
「艶がありますね」と別の審査員が言うと、
「そうそう、それですよ。女性を知ってます」
一同が笑うと、もう歌のことはどうでもよく、女のあれこれに話題が移っていった。

 誰もが向井を中心にして言葉を挟み、向井はときおり芝居がかった演説調で座を沸かせた。
「何事も経験を積まなければだめです」
向井は急に真顔になり、皆が注目すると、間をもたせた揚げ句、
「特に女性はね」
落ちのような一言でまた笑いに包まれた。同じような話が繰り返され、酒が運ばれた。

 用足しに部屋を出ると、別の宴会の騒ぎが妙に空間を感じさせて聴こえてきた。
ふと、こんな具合でいいんだなと思った。悟ったつもりではなく、そう思った。


 気まぐれに扉を押した酒場はひっそりとしすぎてためらった。足を止めかけたところに、カウンターで客の相手をしていた女が振り向いて声を掛けてきた。

 黒いテーブルが三つあるうちの奥に着き、その位置は店内が見渡せた。何かの空き箱のような小さな店である。
 客はカウンターに男が一人いるだけだ。かなり酔っている。

 女が見開きのメニューとお手拭きを持ってきた。
「おい、ウラジオ、どこへ行く」
男が顔だけ向けて言った。女に言ったのだろうが取り合う様子はない。
 お手拭きが差し出された。北欧系の顔立ちをしている。
(ハーフだろうか)
こういった所で見かける、けだるい微笑みを浮かべて私の言葉を待つ目つきをした。
「ウイスキー、ダブル。オードブル」
女は微笑んだまま頷くと同じことをバーテンに告げた。髪の色は栗色だが染めているように見えた。

「何やってんだ、ウラジオ!」
男が声を荒らげた。カウンターにおさまっているマダムらしき中年の女が男の腕をなだめるように叩いた。
「ウラジオ、逃げやがった」
「逃げやしないわよ」
女は有線放送のボリュームを少し上げた。私に向って申し訳なさそうに頷く。
 酒がきて女は横に座った。
「いただいていい?」


 打ち上げの宴もお開きに近づいた頃、重い腰を上げて向井のコップに酌をすると、彼は顔を寄せてきて言った。
「だいぶご執心のようじゃないか」
「……?」
「よしなさい。小娘は相手にしちゃいかん」
ミユキのことだとわかった。
「そんなんじゃないんです」
弁解というより、ただ微苦笑を見せるしかなかった。
「スケールが小さくなるよ。君ならもっとーー」
そう言いかけてビールを一口飲み、
「東京へ帰ったら一度いらっしゃい」
そして意味ありげに目を細めた。

 幹事役のスタッフがお開きを促すと、一同を制して向井が立ち上がった。
「みなさん、今夜の酒は島野くんの番組参加ということで大変美味しいものになりました。これからのご活躍と、我々の親睦のために最後に万歳三唱で締めたいと思いますが、いかがでしょうか」
異論を挟む者などいない。体中で酔っ払った連中と何度も手を握り、ようやく別れると、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。得るものは何もなかったが、不快な思いもしなかった。

「うるさいわね!わかったよ!」
執拗な男の言葉に耐えかねた女が怒鳴った。
「ウラジオストクにゃ、てめえのような女はいくらといるんだ」
男は酔いつぶれる寸前の往生際の悪さをみせていた。
「ウラジオにゃなーー」
「わかったわよ」
中年の女は煙草をふかしながら、さすがにげんなりした顔である。
「わかるもんか」
「わかるよ。ウラジオストックに行ったんだろ」
「ただ行ったんじゃねえ」
「漁船で捕まったんでしょ」
「ぶん殴ってやったのよ。露助をよ」

 ウラジオストックという地名を何気なく考え、それはとても遠い響きに感じた。その男がそこへ行ったという話もやはり遠い感じで聞いていた。

「お代りは?」
女が媚びたように訊いた。口許の辺りがミユキに似ているように思えた。
「ロシア女!」
男の大声が飛んできた。女は頬の緊張を見せて男を睨んだ。私は肩を抱いて引き寄せた。手を握って掌をくすぐった。頷いて恥ずかしそうに俯いた。
「どれだけ?」
女は首を横に振った。
新しい酒をぐっと飲み、その気になってきている自分を煽った。
 


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