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白い波青い海
【その他 官能小説】

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白い波青い海-10

(6)


 翌朝、私は早くから浜に出た。まだ風が残り、ゆったりと大波が打ち寄せていたが快晴であった。
 浜は澄んだ空気に満ちていた。
(誰もいない……)
あの老人は……女は……。
 どれほど待っただろう。しかし、水気を含んだ砂の上に砂の上に煙草の吸殻が何本転がっても老人も女も現れなかった。昨夜の時化で打ち上げられた空き缶や菓子の袋がべっとりと砂をかぶっている。

(来るはずなのだ……)
それは願いにも等しい想いであった。
(彼女の名も知らない……)
知らないからこそ昨夜の渾身の営みが胸を打ち、私を掻き乱す。
 海上を西から東へ倍速映像のように雲が流れていった。


 宿に戻ると壁に貼られた時刻表を確認した。
「お帰りですか?」
主人が帳場から顔をのぞかせ、ロビーにやってきた。
「今日ではないんですが、明日あたりと思って……」
「一時間に四、五本はありますよ。夜は八時が最終です」
私は思案顔をみせながら頷きはしたが具体的には何も決めてはいなかった。

「出来ましたか?」
「?……。ああ、それが、どうも……」
「詩を作るっていうのも難しいんでしょうね」
「そうですね。ぼくには才能がないみたいです」
「そんなことは……」
生返事をしていると、主人の話は意外な方向へ変わっていった。

「そうそう、お客さんが言ってた、あの木村さんのじいさんーー」
私は主人の顔を注視した。
「あの中気のね。なんだか肺炎とかでひどいらしいですよ」
「肺炎……」
「何でも昨日の雨に濡れて風邪をひいたのがいけなかったようで、救急車まで呼んだみたいですよ」
 今朝、女と会えなかった理由を頬張った。そういうことだった。あの老人が……。そこまで考えて、私は戦慄を覚えた。
(老人はあの暴風雨の中、あの浜にいた!)
暗黒の闇、猛り狂う風雨と波に打たれながら、女が息せき切って駆けつけてくるまであそこにいたのだ。

 何が見えるというのだ。見えはしまい。何が老人を動かしているのだろう。心の深層には何が潜んでいるのだろう。私は言い知れぬ想いの中で熱いものを感じていた。

 午後になって居たたまれなくなった。老人が病気なら来るはずはない。わかっていながら私は浜に向った。
 感情が抑え難く一人歩きしていた。私の内であの女はいつか偶像を崇める安らぎのある存在になっていた。肌を合わせたといっても、それは由紀子を愛した時の想いとは異質のものであり、単なる欲望に流されたセックスではない。彼女との一夜は理屈を超えた生きた人間との関わりだった気がしていた。少なくともそう思いたい純粋な心でいたかった。

 はたして、石段から見下ろす浜辺に二人は寄り添っていた。私は峻烈な陽光に目を細め、その姿に胸を衝かれた。

 ゆっくり近寄った私に気づいた女は恥じらうように微笑んだ。
「肺炎だって聞きました。お加減は?」
「熱がかなりあるの」
「それじゃ、病院へ」
「行ったけど、厭だって、お医者さんとけんかして戻ってきちゃった」
「だめですよ」
「……もう、いいのよ……」
私は心の深遠な部分に揺れ動くものを感じた。
「困っちゃうわよねえ。あの雨の中を……」
女がホテルから帰ったのは夜半をすぎていた。

「相当深い思い出があるんでしょうか」
少しして、女が口を開いた。
「そうじゃない……何もないのよ。そして、多すぎるの、いろいろと……」
女の唇がかすかに震えていた。老人も全身を震わせている。容体は逼迫していると思われた。
「おぶっていきましょうか?」
「ありがとう。でも、いいの」
「でも……」
「いいの。じいちゃんは海が好きなんだもんね」
女は老人の顔を覗き込んだ。
「ご親切に、ありがとう。……楽しかった……思い出にするわ」
力のない笑みが頬に差し、区切りのように頭を下げた。そうして潮風に向かい、その瞳は彼方の何を捉えているのか、ただ、ひしひしと伝わってくるのは信念のような毅然とした女の強い眼差しであった。そう感じる根拠は何もない。それでも圧迫する何かがあった。

 私は二人を残して帰ることにした。彼らの踏み込み難い雰囲気が私を寄せつけなかった。
「さようなら」と伝えると、女もやっと聞こえる声で応えた。
 石段の上から俯瞰すると、なぜか海がいつもより広大に感じられた。
(海は広いものだ……)
だが、それにしても広い。果てしない。ぽつんと一つになった二人がいまにも波に呑み込まれそうに見える。太陽は無言の熱を降り注いでいた。

 私はそのパノラマを眺めながら、ふっとある事を考えたが、そのまま浜に背を向けた。
老人について、私は何も知らない。昔この土地で漁師をしていたらしいこと、現在半身が不自由。それだけだ。だから、彼の心情を推し量ることなど出来はしない。しかし、執念のごとき彼の行動はそれだけで私の口を封じる力をもっていた。撥ね退けようのない重みがいつの間にかのしかかってきていた。
 老人は痴呆ではない。明確な意思をもって自ら動いているのである。人生への妄執なのだろうか。……そして老人を支える女の存在が光を放って浮かび上がってきた。


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