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特に、何も……
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特に、何も……-8

 ぬるめのお風呂に浸かって湯気を吸い込む。そしてゆっくり吐き出す。体の中から何かが出ていく気がする。出ていくっていっても何が溜まっていたのかわからない。でも心が少し軽くなるようだ。
 掌を合わせてぎゅっと指を組み、ゆるめて、また組む。

 帰り際、玄関で中野さんが両手で私の手を握った。じっと私の目を見て、小さく二、三度頷いた。懇願するような眼差しを避けて、私はつとめて明るく、
「明日はデイの日ですよ。九時頃お迎えに来ますから支度しておいてくださいね」
力のこもる中野さんの手をぽんぽんと叩いた。

 あの女の人のことで私が気分を害したと思って謝罪の意味だったのか、日曜日の訪問を続けてほしい想いを伝えてきたのか。ともかく、手を握られたことも初めてなら、中野さんが何も言わずに別れたことも今までにないことである。
 感触が残っている。中野さんの手は汗ばんでいた。
(私の手はどうだっただろう……)
少し湿っていたかもしれない。

 掌には感情が表われるように思う。中学三年の文化祭を思い出す。体育館で行われたフォークダンスに参加したのは憧れの『田代くん』がいたからだ。
 運動神経未発達の私は走ることも投げることも何もかも苦手。一年の時も次の年もフォークダンスでさえ避けていた。楽しそうに男子と女子が手をつないで軽やかに踊る姿をいつも眺めていた。
「理恵、おいでよ」
同級生が何度か誘ってくれたけど、手を振って用事がある仕草をみせた。

(もう、会えないかもしれない……)
三年の最後の文化祭で気持ちが高揚して思い切って輪の中に入ったのだ。
(田代くん……)
大好きだったけど口を利いたこともなかった。
(一度、彼の手に触れて、思い出にしたい……)
チャンスは今しかない。

 見よう見まねでさりげなく踊ったけど、田代くんの位置ばかり見ていた。寒い日だったのに顔が熱っぽい。彼が近づいてくるにしたがって掌が汗ばんでくる。何度もスカートで拭いた。

「なんだよ。お前の手、ぬるぬる。病気かよ」
ある男子と手を合わせた時に言われて私は駈け出して体育館を飛び出した。屈辱感、恥ずかしさ、そしてほっとした想いもあった。田代くんでなくてよかったと思いながら悲しくて涙が出てきた。

 中野さんの手が温もっていたのは、きっと拳を握り締めていたからだと思う。
「ふふ……」
声を出して笑った。私を好きだと言った言葉を思い出していた。とっさに動揺した自分がおかしくなったのだ。中野さんの真意はわからないけど、相手はオジイサンである。
 振り返ると、男性に好きだと言われたことは一度もない。だからって、七十歳になる人に……介護している人に……。

 私って免疫ないんだなってつくづく思う。二十八になっても片思いばっかりで、思い返すと鮮烈な出来事なんてひとつもない。もしかしたらこうして何も起こらないまま歳を取ってしまうんじゃないかしら。そんなことを考えると胸がえぐられるような重い気分になる。

 短大二年の秋に同級生の美加とS大の学園祭に行った。美加の彼氏がバンド演奏するからと誘われたのだ。
「かっこいい人、見つかるかもよ」
はしゃいで言う彼女に嫉妬しながらも、
(ほんとに出会いがあるかもしれない……)
出かける時は積極的にいこうと自分に言い聞かせたものだ。でも、いざキャンパスに入ってみると思ったようにはいかない。女子大とは活気がちがう。模擬店も男女が一緒になって盛り上がっている。カップルも多いし、みんな背が高くてスタイルがいい。
 美加は私を置いてバンドの控室に行ったきりなかなか戻ってこない。ぶらぶら校舎の中を歩いていると誰もいない文芸部の張り紙の部屋で呼び止められた。学生とは思えない老けた感じの男性だった。
 その部屋でどんな話を聞いたのか、よく憶えていない。結局、帰る時、一冊三百円の文集を買わされて、
「彼女、また遊びに来てね」
振り返るとその男の姿は教室に消えていた。

 その文集は少しも面白くなかった。じっくり読まなかったこともあるけど、意味がわからなかった。
 その中で一つだけ、短い、詩のような一文があって、なぜか心に残っている。『コマ送り』というタイトルだ。

 人生をコマ送りみたいに感じることがある 過ぎ去った日々を振り返ると なんだかひどくぎくしゃくしていて そこにいたはずの自分がとてももどかしい
 本当に自分は生きていたのか? 生きているのか?
滑らかさを欠いた過去の自分が 脳裏の映像の中でつんのめるように歩いている 走っている
 コマ送りだから 歩いているのに飛び跳ねているようで 転んでしまう危うさがある
 生きてきたのかな? 生きているのかな?
すべてが人生のひとコマ 躓きも暴走も嫉妬も堕落も そして若さもひとコマにすぎない だから悲観することはない 枯れ葉でも一滴の潤いがあれば光りを受けて輝くこともある 闇に対して光りがあるのだ それもひとコマ…… 

 暗い内容だと感じるから好きではないのに、自分が入り込んでいくような気持ちになって頭から離れない。人生を振り返るなんて、まだそんな齢じゃない。
「情けないよぉ……」
人生を考える?枯れ葉でも輝くなんて……。私はまだ若い。力強く、そう思いたい。言いたい。……


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