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特に、何も……
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特に、何も……-3

 休日の朝。慌てなくていい朝。九時を過ぎている。
休みの日は目覚ましはかけないからゆっくり寝られる。暑くなければもっと寝ていられるだろう。冬に昼過ぎまで寝たことがある。

 昨夜はアイドルグループのM君の写真を抱き締めながら恍惚状態になってそのままいつ寝入ったのか憶えていない。
(彼になら、何をされてもいい……)

 暑さに耐えかねてやおら起き上がると、トイレに行って、食事の前に洗濯に取り掛かる。お昼には中野さんのところへ行かなくてはならない。大量の洗濯物。一回じゃ終わらない。ジーパンもあるから三回はかかる。

 洗濯機を回して、牛乳をコップ二杯がぶがぶ飲んでから一気に片付けようと気を高ぶらせて掃除機をかける。
 他人がやってる掃除機はうるさい。でも自分が使ってる時は何も感じない。勝手である。掃除は好きじゃないけど、お菓子のカスやホコリがあまりに目立つと仕方なくかける。
 初めは『弱』にして、隣の部屋に気を遣う。休日の午前中だから。でも、だんだん物足りなくなってきて、もう九時半だし、『中』にして電気代エコにしなきゃと思いつつ、体が熱くなって、しまいに『強』にしてしまう。
 バアーっと吸引の音が広がって他の音は何も聞こえない。テレビの音もインターホンも、たぶん電話の呼び出し音も、聞こえない。

 何もかも吸い取れ!
誰かがやってたら騒音にしか聞こえないのに、自分がやってるとうるさくない。あそこも、ここもと、つぎつぎとホコリが目につく。
(なんて汚れてるの)

 バアー、バアー。うっかり紙を吸い込むとキューっと苦しい音になる。
いつの間にか夢中になって掃除機を操り、一体となっている感じになる。
 バアー、バアー、バアー。
 スイッチを切ると異様な静寂。いや、それは日常の生活音だ。どこかで子供の声。車の音。アブラゼミの鳴き声。……
 なんだか疲れて汗びっしょりになった。


 昼少し前に家を出た。中野さんの団地まで自転車でいくらもない。
スーパーで出来立てのから揚げ弁当を買って、迷ってからショートケーキを二つカゴに入れた。から揚げは中野さんの好物で頼まれたもの、ケーキは私の差し入れだ。

 中野さんはデイサービスに週三日通所している利用者さんだ。私が送迎を担当して三年ほどになる。齢は六十九歳。
「ぼくは戦争のさなかに生まれたんだ。昔、戦後生まれの若者が戦争を知らない子供たちなんて歌ってたけど、戦前生まれでも戦争は知らない子供だったよ」
その話は何度もする。何を言いたいのかいまだにわからない。

 初めは歩行も困難で車いすを使ったこともあったのだが、水頭症の手術をしたら信じられないくらい元気になって、ややおぼつかないけれど杖も必要ないくらいに快復した。もちろんスタスタとはいかないから注意しないとよろけたりする。
 奥さんとはだいぶ前に離婚して二人の娘さんとも絶縁状態らしい。独居老人である。

「自業自得さ」
時折の話によると、ずいぶん遊んだようだ。外国人の女性に貢いだり、賭け事で借金を作ったりで家族は愛想をつかしたと自分で笑う。
「タイやフィリピンの女はいいぞ。やさしくて」
「そんなのお金目当てだからでしょ」
「それでもやさしいんだから、いいよ。給料持っていっても女房はやさしくなかった」
どこまでほんとだかわからないけど、遊んだのは事実らしい。

 今年の春頃、玄関まで送って別れる時にちょっと話があると言われた。送迎が終わったら速やかに帰社して掃除をしなければならないのだが、中野さんが最後だったので少しならと、
「なんでしょう?」
玄関で立ち話をした。

 話というのは、私が休みの日に家の事を頼みたい、というのだった。家の事とは、掃除や買い物、食事の世話など、身の回りの手伝いである。それなら訪問ヘルパーさんを派遣してもらえばいい。
「ケアマネさんにお話してください」
当然そうあるべきで、まして利用者さんと個人的に付き合うことは禁止されている。
「それは知ってる。だけどそれじゃだめなんだ」
「だめですか?」
「そう。だめなんだ」
中野さんは訥々と話す。
「理恵さん」
二人の時だけ私を名で呼ぶ。誰かいると、「須田さん」と言うのに、トイレの誘導の時とか家の近くに来ると「理恵さん」と呼ぶ。

「なんかね。あなたを見てると気持ちが落ち着くんだ。ほんわかして。やさしいしさ」
「お上手ね」
「ほんとさ。今風にいえば、癒されるっていうのかな」
「私、フィリピン人じゃないですよ」
「そんな意味じゃないよ。知らない人が来るんならわざわざ頼まない。不自由でもいいんだ。理恵さんに来てほしいんだ。何とかお願いできないかと思ってさ」
 私は規則を懇懇と説明した。もし内緒で事故でも起こったら大変である。
 中野さんは執拗だった。しまいによろよろと座り込んで土下座までして、
「一度でいいからお願いする。一時間でもいい。誰にも言わないから。ちゃんと日当もお支払いします」
 やり取りをしても切りがなくて。
「じゃあ、一度だけ、ボランティアで。一度だけですよ」
その時の中野さんの嬉しそうな顔は子供みたいだった。


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