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栗花晩景
【その他 官能小説】

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秋雨道標-8

 曇っているのか、夜景に目映いきらめきがない。酔いが回っているのに頭が冴えていた。

「それでもお母さんたち、結婚したんだ」
話を戻すと、弥生はちょっと目を伏せ、考える様子を見せた。
「うん。……でも、結婚式には由比からは誰も来なかったって。絶縁状態よね。だけど、あたしが生まれてから、諦めたっていうのか、許す形になったみたいで、何度か由比に行くようになったの。母とだけどね。父は一度も行ってない」
 弥生の表情が曇り始めた。手にしたグラスを見つめ、言葉を探すように口元を動かした。

 沈んでいく空気の中で、私の決意が不意に澱みを突いて出た。
「実は、もっと先にって考えていたんだけど……」
弥生が目をあげた。
「結婚してほしいんだ」
弥生の顔がかすかにこわばり、背筋が伸びた。私をじっと見つめ、やがて視線が弱々しく手元に落ちていった。

「ありがとう……」
言葉は細く、あっという間に涙があふれて頬を伝った。
「いいよな?」
弥生はタオルで顔を被ったまま何も言わない。

 返事を急かせてはならない。突然のことだ。戸惑うのは無理もない。すぐにどうこうというわけではない。……

 やがて振りかかった髪の間から赤くなった目が覗いた。
「あたしの弟、生まれつきの障害をもってるの。介護がないと一人では何もできないの。今は母が全部やってて、あたしは手伝うだけだけど、いずれ母も出来なくなる。そうしたらあたしが面倒みるしかない。いえ、そうしないといけないの」
私が口を挟む話ではない。

 弥生は言葉を拾うように語った。
離婚は高校三年の時、受験勉強も追い込みに入った夏のことだった。彼女は進学を諦めたそうだ。
 ある日、父親から呼び出された。父は彼女に詫びながら、自分が出来る条件を伝えてきたという。
 二十歳になるまでの二人の養育費のこと、弥生の大学の費用は何とかするから心配するなと言われ、ただ、卒業後は自分たちで生きていってほしいと言われたそうだ。
「父もお金が有り余っているわけじゃないしね。家もあたしたちに残してくれたの。ローンも払ってくれてる。気がかりなのは弟のこと。父も苦しんだと思うけど、結局お前に頼むしかないって、泣いたの。父が泣いたのを初めて見たわ……」

 弥生は次第に落ち着きを取り戻してきて、ときおり笑みを交えた。
「母もそのことを知ってるから、大学の四年間は好きにしなさいって、自由にさせてくれた。この時しかないって、あたしも開き直ったところがあって。派手な格好しても母は何も言わなかった。外泊した時も、自分を大事にしてねって言っただけ……。その言葉、嬉しかった……」

「仕事にこだわったのは。そういうこと……」
「うん。役所なら時間も融通が利くし、将来の安定もね……」
弥生は私にやさしい眼差しを注いでから頭をさげた。
「だから、とっても嬉しいんだけど、結婚はできないの……」

「弟さんのことだけど、結婚したって世話はできると思うんだ。近くに住むとか、一緒に住んだっていいし、俺だって手伝えるよ」
「そんなこと、無理よ。ご両親のこと、考えてみて。障害者を一生面倒看ていくなんて条件を知ったらどう思うかしら。辛いわよ。あたしだって辛いもの。ましてあなたは一人っ子だし……。いずれあたしたちの親も齢をとるのよ」
「何とかなるよ。がんばれば……」
説得というより、子供ような返し言葉になっていた。

「子供が生まれればなお大変になるでしょう?どこかにしわ寄せがいって、きっと何かうまくいかないことが起こるわ……」
 灰皿には次々と煙草が揉み消されていった。
「あたし、高校の時からそう決めてたから……」
「そんなバカなこと……。そんな人生、いまどきないよ。施設に預けるとか、方法はあるだろう」
「そうするのなら父があたしに頼んだりしないわ」
「ひどい話だよ……」
それは彼女の親に向けたものではない。やり切れない想いが言葉になってしまったのである。弥生は答えなかった。

「じゃ、このまま付き合っていくっていうこと?」
「だめよ。それこそあなたの人生が見えなくなっちゃうわ。……今日、最後と思って来たの。悲しいけど、そうするしかないの……」
弥生の目にふたたび涙が溢れてきた。
「俺、弥生のお母さんに話してみようか」
「それはやめて。母はあたしの好きなようにしなさいって言うに決まってるから。そうしたらあたし、どうしたらいいかわからなくなる……」
涙を拭う弥生を見つめながら私は胸が詰まって言葉が出なかった。


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