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憲銀の恋
【純愛 恋愛小説】

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あの日、憲銀と出会った-1

 それにしても変なアクセントの日本語である。最初見たときは ”ちょっと行儀の悪い今時の若い日本人の女”とぐらいしか思わなかったが、どうやら日本人ではないらしい。正直厄介な事になったと思った。私が自分の顔を指差すと女は ”コクン”と頷いた。

 厄介な気分とわずかばかりの興味がない交ぜになりながら席を立った。私は女が読んでいた本を覗き込んだ。

「日本語むつかしね、これ意味わかりません」

 意外な事に彼女が読んでいたのは理美容の専門書であった。

 理美容のことなどトンと判らぬが、日本語の意味なら判る。女が理解できない文章の意味を、女が理解できる程度の簡単な日本語と身振り手振りで説明する。それにしても恐ろしく根気の要る作業であった。僅か1ページの説明に一時間以上を要した。私がそれに耐えることができたのは二ヶ月ぶりの”ヒト”との会話・・・それのみであった。

 傍らの紙に 徐 憲銀 と記し

「わたし ジョ・ケンギン、中国の留学生。YMCAの日本語学校に通(かよ)てます」

 女が自己紹介したのはやっとの事、三ページ程を説明し終えた時であった。それにしても日本語学校の学生が理美容の専門書を読んでいる意味がトンと判らなかった。

 私は女が書いた名前の横に ”古 照明”と書き、自分の名前を女に教えた。

「オー、中国語では”ク・トウミン”ね。わたし、クウ・シンニン、よろしくお願いします」

 初めて出合った異国の男に何の警戒心も見せず、憲銀は屈託無く微笑みながらそう言った。憲銀が私に対して警戒心を抱かなかったのはきっと私の年齢のせいなのだろう。憲銀と出合ったこの時、私は五十三歳。自己破産に至る心労、その後のホームレス生活ですさみきった私を憲銀はもっと高齢であると思ったに違いなかった。
 
 身長は155cmほどであろうか、小柄で華奢な体型である。色白の小顔の中の大きな目がやけに印象的である。この時の私の目には、憲銀は二十二、三才程の独身女性にしか見えなかった。
 傍(はた)から見れば親子に見られてもなんら不思議ではない年齢差である。それにしてもあまりの屈託の無さにそのとき憲銀がどれほど深い悲しみを抱えていたのか、全くといっていいほど気が付かなかった。
   

「私留学生けど、中国で理容士やてたね。学校休みのとき日本の理容師の勉強してる。けど日本語難しい。全然判らないよ」

 色白の頬っぺたを思いっきり膨らまし、憲銀はそういった。

「これからアルバイト面接行くけど場所わからない。あなた解るか?」

 憲銀はポケットから小さく折りたたんだ数枚の紙を取り出した。アルバイト情報誌から破り取ったものである。それにしても全てここから程近い繁華街に在る高級理美容店ばかりである。アルバイトとはいえ日本語も定かではない中国人留学生を雇い入れるとはとても思えないが、とりあえず案内してやる事にした。
 
 ゴールデンウイークを数日後に控え、街はすっかり華やいでいた。人目を避け、すっかり人通りが絶えた時間にしか歩かなかったこの通りを、若い女と並んで歩いていることに戸惑いを覚えた。

 店から出てくるたび、憲銀は同じ言葉を繰り返した。

「ここだめ、次行くね」

 そんな事を何度も繰り返しているうちに街には華やかなネオンが灯りだした。最後の店を出てきたとき、さすが憲銀の顔には疲労と失望が色濃く浮かんでいた。

「今日はだめだたけど、明日大丈夫。他の店面接行くね、あなた、明日も市民センターいるか?明日も案内するね」

 明日どころかずっと何も無い毎日である。明日の約束をして私は図書館の階段下のねぐらに戻った。
 

 親子程歳の差のある若い女との約束、自己破産する前でも無かった事だ。たとえそれが道案内であっても胸が高鳴った。この夜だけは自分がホームレスであるという事を忘れた。
 
 市民センターの開館を待ちいつもの席に腰を下ろす。部屋には自分のほか誰もいない。無論憲銀の姿も無かった。
 にわかに不安になった。伸びきった髪、着たきりのくたびれた服。他人との関係を全て絶っていた昨日までは全く気にならなかった事がにわかに気になりだした。席が埋まる度にそれは益々強くなった。

「待たか?」

 憲銀がやってきたのは開館から一時間程もたった頃である。周りの目など一切気にする事無く、昨日と同じ屈託の無い笑みをうかべてそう言った。そしてそれが何故か腹立たしかった。無論それが筋違いな腹立ちだという事も判っている。既に私は憲銀に恋をしていた。

 自己破産で全てを失ったとはいえ生きていくためのぎりぎりの金は残しておいた。しかし全く収入のあての無い二ヶ月のホームレス生活(ぐらし)でそれも底を突きかけていた。床屋には一度も行っていない。三日に一度の入浴が一週間に一度になり、今では十日に一度となっている。洗濯も似たようなものである。確実に劣化していた。無為な暮らしをしていた昨日までとは違い、今日は自分のことが気になって仕方が無かった。憲銀が現れるまでの一時間でそれは頂点に達していた。

 そんな私の思惑など全くお構い無しに憲銀は声をかけてきた。室内の目が一斉に私と憲銀にに注がれた。
 薄汚れた初老の日本人男と中国人の若い女の組み合わせはこの部屋の誰の目にも奇異に映ったに違いない。

「又勉強ね」

 憲銀はバッグの中から昨日と同じ理容の本を取り出す。周囲の好奇な視線、専門外の難解な本、伝わらない言葉・・・拷問のような二時間をここで過ごし、再びアルバイト探しの道案内に街へ出た。そしてその日も憲銀のアルバイトは見つからなかった。
 そんな繰り返しが一週間ほど続いた。


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