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霊妙
【その他 官能小説】

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霊妙-4

 確認しないことには治まらない。しかし、いったい何を?……。ペンションか?……何を手掛かりに……。夢の根源か……?どこを目指して……。

 なぜ列車に乗り込んだのか、想いの行き先に確たるものはない。執拗に現われる千秋の幻影。夢に取り憑かれたように思考が混濁していた。
 靄のような記憶を引き出して彷徨ううち、彼を衝き動かしたものは『迷い』なのではないかと思えてきた。
 先月清里に行くまで思い出すこともなかった千秋。その面影がふっと甦ったと思ったら彼女が心に棲みついてしまった。なぜ?
 千秋を諦めたあの時、未練はあった。それは嗚咽を伴うほど辛いものだった。だが、雅子がいてくれた。その優しさにすべてを忘れたはずだった。
 それなのに、まるで千秋が自分の体に乗り移ったかのように絶えず疼く感覚がある。
(忘れていないのではないか?……生きているのではないか?……千秋が自分の心の中に……)
 しかし、いまさらどうにもならないことなのに……。

 列車に揺られながら、ぼんやり窓外を眺めていた時、記憶を被っていた霧の一部がすっと晴れた。おやっ?……
(合レクのあの日、清里じゃなかった……)
思い出そうとしていたわけではないのに、朝日が差し込むように頭の中が鮮明になった。篠原は思わず腰を浮かせかけて、ふたたび座り直した。
(俺が幹事だったじゃないか……そうだ……)

 なぜ忘れていたのだろう。幹事役は何度か回ってきたが、あの時もそうだった。
 清里を歩いたのはまちがいない。清泉寮を中心に爽やかな高原の道を散策した。清里は女子に人気の地である。だが近くのペンションはどこも予約が取れなかったのだ。
(仕方なく、甲斐大泉に……)
泊まったのは清里ではない。
(そうだった……)
清里の印象が強すぎてすっかりそこに泊った気になっていた。
 篠原は軽く膝を叩いてから可笑しくなった。
(だからといって、昔に戻るわけでもない……)
ただ、気持ちの中に微かな温かみが生まれていた。


 木々が色づきはじめていた。九月の末である。東京では時に汗ばむ日もあったが、季節は静かに移りつつあった。
 駅前は閑散としていた。人の姿はほとんどなく、中年のハイカーらしきグループが地図を見ながら輪をつくっていた。夏の賑わいは秋風とともに去り、やがて冬を待つばかりとなるのだろう。

 案内所も閉鎖されている。篠原はぶらぶらと歩き出した。見まわしても憶えのある建物や景観はない。
 五分ほど行くと大きな案内板があった。近寄って見上げると略図の中にびっしりとペンションが書き込まれてあった。
(どの辺だったろう……)
文字が消えかかっているものもある。方向も憶えていない。
 !………。『勿忘草』。探すまでもなかった。その名前だけが昨日書いたようにくっきりと浮き上がっていた。
「あったんだ……」
篠原は声に出して大きく息をついた。だが、あの時のペンションかどうかわからない。どこにでもありそうな名前である。
(とにかく、行ってみよう……)
歩きだして振り返ると。『勿忘草』の文字が陽光を反射していた。


 たどり着いたペンションの前に立った時の驚きを何と言い表わしたらいいのだろう。篠原は背筋に戦慄を覚え、呆然と立ち尽くした。
扉の前に千秋がいた。
「お久しぶり……やっと来てくれたのね」
恥ずかしそうに微笑む頬に小さなえくぼ。
(千秋だ。いや、ちがう)
目の前で愛らしい瞳を瞬かせているのは二十歳そこそこの娘だ。

「君は……?」
篠原は一歩足を踏み出して訊ねた。胸が高鳴っている。
「いやだわ、篠原さん」
(なぜ、俺の名を……)
『千秋』は可笑しそうに口を押さえて小首をかしげると扉を開けた。
(その仕草、千秋だ……)

「どうぞ、いらっしゃいませ」
わけがわからず混乱しているはずなのに、篠原はためらいもなく従っていった。
 「あ……」と声を洩らしたのは、はっきりと思い出したからである。
 窓際のこじんまりした食堂。奥に見えるキッチン。レンガ造りの暖炉。壁には雪を頂いた八ヶ岳の油絵。
(ここは『勿忘草』だ……)

「まだあったんだね…」
篠原が昂奮して振り向くと、すぐそばに『千秋』がいた。
「ずっとあったわ。あなたを待っていたのよ」
微笑んでいながらその目には強さを感じさせる輝きがあった。
「ここは、勿忘草だよね」
「そうよ。だから来てくれたんでしょう?」
「そう……思い出して……」
「忘れていたの?」
「いや……」
篠原は言葉を濁した。
「君は、ここに住んでいるの?」
「ふふ。おかしなことを言うのね。私の家ですもの」
「君はーー」
言いかけると『千秋』は踵を返してキッチンに向かった。
「朝からローストビーフを作っていたのよ」
『千秋』はオーブンからこんがり焼き色のついた肉の塊を取り出してみせた。
 そっくり、というより、千秋本人である。二十年前の彼女そのままであった。だがそんな馬鹿な話はない。
 篠原は椅子に体を沈めると煙草をくゆらせながらキッチンで立ち働く『千秋』を目で追い続けた。

「ご家族は?」
篠原が問いかけると彼女はにっこり笑って、
「私ひとり。だからあまりお客様はお迎えできないの。今日はあなただけ。ゆっくりしてね」
 深い夢の中にいるのかもしれない。ならばそれでもいい。そう考えると平静さを感じるようになった。次々と浮かぶ疑念がどうでもいいことに思えてきた。もっとも、思索を巡らせるにしても糸口が見つからないのが本音であった。


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