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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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 翌朝六時にかけたアラームが鳴るとともに、すぐに切った。彼女を起こしてしまわないように気を配ったのだ。音量もできるだけ小さめのものを掛けたつもりだった。しかし、俺がトイレに行って戻ってくると、彼女は上半身を起こして「おはよお」と呟くように言った。
「わりぃ、起こしちゃった?」
 キリはぶんぶんと頭を振って「いつもこれぐらいに目が覚めちゃうから」と、少し跳ねた髪を手で撫でた。
「仕事、だよね?」
 トースターにパンを二つ突っ込んで「そうだけど」と薬缶を火にかける。「そっか」と呟く小声が聞こえた。俺はマグカップを二つ用意して、インスタントコーヒーを入れる。ほどなくして、トースターのタイマーが切れた。
「ジャム? マーガリン?」
 自分でやる、とベッドから降りたキリは、俺の隣に並んだ。マーガリンをバターナイフで塗り付けながら「洗濯物やっとこっかぁ」と言う。
「あぁ助かる。洗濯機ベランダにあるから。洗濯物はそこのかごに入ってる。ハンガーとかは一式ベランダに置いてあるから」
 まるで同棲生活のようだと思うとおかしな気分だった。彼女でもないキリと一つ屋根の下、一緒にいて、洗濯物も一緒に回してもらう。朝ご飯は自分が用意して、きっと夕飯を作って待っているキリがいる。キリはこの事をどう思っているんだろうか。まぁ、自分で「ここにいさせてくれ」と言ったぐらいだから、満足なのかも知れない。本当に行く当ての無い迷い猫なのだろうか。
「電車で行くの?」
「いや。電車もバスも通ってないとこだから、原付で行く」
 ふーん、と頷きながらパンに齧りつく。また、小動物のようだと思う。何かに齧りついている姿が妙に似合うな、と思い、思った事は顔に出てしまっていたらしく「何笑ってんの?」と怪訝な表情を向けられる。
「キリ、ちっさい動物みたいで可愛いな」
 するとキリは小さな顔の小さな頬を少し赤く染めて俯いて、「それ、褒めてないよね」ぼそっと言ったので、俺は喉の奥の方で笑った。

 靴箱の上に置いてある、ピックモチーフのキーホルダーがついた鍵を持ち「じゃぁな、勝手に外に出るなよ」とキリに釘を刺すと、彼女は飼い主に置いて行かれる犬みたいな顔をして「早く帰って来て」なんて言う。
「何だお前。俺の嫁かよ。行ってきます」
 ドアを閉めようとすると、彼女はドアノブを持ったまま離さないので、そのまま玄関を出た。俺が原付のエンジンをかけている間もずっと彼女は、玄関からこちらを見ている。
「寒いから早くドア閉めろよ」
 そう声を掛けるのだが、部屋の中に入る気配はなく、仕方なく俺は右手をひらりと上げて職場へ向かった。
 その日は一日中、気が気じゃなかった。あんなに沢山の薬を食べるみたいに飲むキリが、日中ふらふらと出歩いてその辺に転がって眠っているのではないかと不安で仕方がなかった。俺には彼女に対する監督責任がある訳でもないのに。
「桜井、明後日、十時に迎えの車が来るっていうから、出勤十時でいいよ」
 先輩にそう言われ現実に引き戻される。「ちょっと寝坊できますね」と返すと先輩は笑っている。
「お前は無遅刻無欠勤だからな、時にはいいんじゃね? ゆっくり出てこいよ」
 へらりと笑って「そうします」と答え、キーボードに手を置いた。
 有給休暇という制度はあるし、それを使える環境でもある。でも俺はあまり風邪をひく体質ではないし、同僚のように二日酔いで休むという事もまずない。ライブに出るとしても大抵夜だから、休みを取る理由がない。
「じゃ、お先です」
「在室」のタグを「帰宅」のタグに取り替えて職場を出た。
 「さむっ」思わず口に出してしまうぐらい、風が冷たい。俺は首にネックウォーマーとマフラーを二重に巻き、軍手と手袋を二重に装着してヘルメットを被って原付にまたがった。風が顔に痛くささる。そろそろフルフェイスのヘルメットを買うか、なんて考えながらいつも春を迎えてしまう。家に近づくにつれて、キリの事を考え始めた。家にいるだろうか。出歩いてないだろうか。



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