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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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 ドライヤーのコンセントを引き抜くと、まだ熱を持ったままの本体にコードを巻き付けながら「なぁ、何で俺だったの?」と訊ねた。彼女は一瞬目を見開いたかと思うと、それを急速に細めて「そこに、武人がいたからだよ」と言って、昨日のように口元だけで笑う。
「そこにいたって言ってもさ、もしそれがすげー悪いやつで、変態で、変な事されたらどーすんの」
 張り付いた笑顔はそのままで、じっと俺を見つめる。その瞳は、やはり少しの寂しさを抱えているように、俺には見えた。
 俺は、いくら付き合っている女がいないからといって、昨日知り合ったばかりの彼女をどうにかするつもりはなかったし、彼女だって俺とどうにかなる気はないのだろうという事は分かっていた。しかし、脅しのつもりで彼女の肩をつかむと、押し倒した。まるで何の抵抗もなくその身体は床と平行になり、驚く。もっと驚いたのは、彼女が顔色を一つも変えなかった事だ。
「武人ならそういう乱暴な事しないって分かってたから」
「分かってたって、俺ら知り合い? 俺全然知らないんだけど」
 彼女の真上から声を浴びせ、彼女の返事を待ったが、彼女は暫く間を置いてから「私も知らない」と答えた。
「訳わかんねぇ」
 俺は彼女をそこに捨て置いて立ち上がると、ドライヤーを棚に置き、押し入れから布団を取り出した。
「あ、私が布団で寝るから」
 彼女はそう言うと立ち上がったが、「いいから」と制した。
「俺、朝早いから。食パンがそこの棚の上にあるから、適当に朝ご飯食べて。昼飯も適当に」
 言いながら俺は布団を敷き終えると、台所に置いてある歯ブラシを手にして歯を磨き始めた。それを見たキリも鞄からごそごそと歯ブラシを取り出し、「私もここに置いておいてもいい?」と顔を覗き込むので、俺はこくりと頷いた。
 俺が口をゆすぎ終わると、キリも同じように口をゆすぎ、それからそのコップに水を汲むと、調理台の上に置いた。俺は何も言わずにこれから繰り広げられる彼女の行動が何なのかを、布団の上からじっと見ていた。
 鞄の中から白い袋が三つ程出てきた。更にその中から出て来たのは複数の銀色のシートで、そこから一つずつ、ちゃぶ台の上に押し出している。そのうちの一つが転がって、俺の近くに落ちた。
「何の薬、これ。つーかそれも」
 俺は綺麗な青をした薬をテーブルに戻すと訊いた。
「睡眠導入剤とか、抗うつ剤とか、安定剤とか。私、そういう系なんだ、自分では認めたくないけど」
「そういう系ってどういう系だよ」
 彼女はちゃぶ台に散らかした薬を手の平で端に集めると、もう片方の手の平に落とし、それを一気に口の中に放り込むと、台所に置いてあった水をごくごくと飲んだ。
「薬ないと眠れないの?」
 歩いてきてベッドにすとんと腰掛けると「そうだね」と頷いた。「不眠症だから」
 昨日は薬を飲んだ上で出歩いていたのか。随分と危ない事をする物だと思う。いや、歩いている間に飲んだ可能性だってある。
「薬飲んで出歩いたら危ねぇぞ。昨日みたいにふらっと眠っちゃったら周りにいる人、救急車呼ぶかもしんねぇよ」
 カラリと笑って「救急車って」と言い、そしてまた笑う。
「薬飲んだだけじゃ暫く眠くならないんだ。結構気持ちが安定してからとか、薬が完全に効くまで切羽詰まってからじゃないと眠れないの」
「じゃぁ俺と話してた時は切羽詰まってたって感じ?」
 全く見ず知らずの俺を見て安心する訳がない。となると薬の限界だったと考えるしかないだろう。しかし彼女の答えは違った。
「ううん、武人の顔見たら安心して眠くなっちゃった」
 俺は首を捻って「意味分かんないです」と言い、電気から下がるコードを引っ張った。
「多分今日もすぐ寝ちゃうと思うよ」
「意味分かんないです」
 俺は出勤時間に合わせてスマートフォンのアラームをセットし、それからニュースのサイトをざっと流し見る。そのうちにベッドの方から静かに寝息が聞こえて来た。本当にすぐに寝てしまったのだなと苦笑し、スマートフォンの液晶を消した。


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