投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

季冬
【その他 官能小説】

季冬の最初へ 季冬 1 季冬 3 季冬の最後へ

雪ノ章-2

「蘇芳さん、どうなさったんですか?」
 顔の前でひらひらと手を振られて、彼はやっと戻ってきた彼女の存在に気がついた。
「…何でもないですよ。では、頂きます」
苦笑いを浮かべながら、彼はお汁粉の入ったお椀を受け取る。
 彼の後ろに立つ女性、彼女は、篝 紫苑。亡き晏爾の忘れ形見である。
若い女性らしく華やかで愛らしい容貌、そして、腰に達しそうな程の真っ直ぐな長い黒髪は、まるで日本人形のようだ。
色白の肌が、黒目勝ちの大きな瞳と、紅い唇の美しさをさらに際立たせている。
 蘇芳が紫苑と初めて出会ったのは、彼が大学を出たばかりの二十二歳で、彼女は当時十五歳だった。二人は知り合ってから、かれこれ約五年経過している。
紫苑の両親は、ほぼ勘当同然で家を飛び出して駆け落ちし、元々病弱であった母は彼女が物心つく前に既に他界していた。
 そして、終には父までも帰らぬ人となってしまった二年前から、天涯孤独の身となった彼女と共に彼は暮らしている。
二人で住むには、広すぎる程の家だ。
家政婦の一人も雇っていないにもかかわらず、家の中は隅々まで手入れが行き届いている。
一度、蘇芳は紫苑にお手伝いさんでも雇ってはどうかと勧めてみたが、他人に手を加えられるのは嫌だといってきっぱりと断られた。
確かに、彼も傍から見ていて、彼女にとっては家の手入れは苦でも何でもないようなので、そのまま任せっきりだ。
 紫苑は器量も良く、明眸皓歯で楚々とした風情の女性である。
蘇芳は、もうそろそろ自分もお役御免だろうとうっすら感じていた。
世の男は大和撫子の鑑のような彼女を決して放ってはおかないだろう。
その時、自分は大事な娘を嫁にやるような気持ちにでもなるのだろうかと考えていた。

「今年の初雪は早かったですねえ」
「ええ、本当に」
 当たり障りのない会話を交わしながら、紫苑も蘇芳の隣にそっと腰掛けた。
一面灰色の虚空から、真っ白い雪が舞い降り、地面に接しては儚く溶けて消えゆく。
この量だと、一時間もすれば少し雪が積もっているかもしれない。
蘇芳は、その刹那の瞬間をじっと眺めていた。
 そして、隣に腰掛けている紫苑は、鼻梁の通った彼の涼やかな横顔を密かに見つめていた。
初めての出会いから五年、それなりに年を積み重ねて深みのある顔立ちになっているが、長めの前髪から覗く、優しくて穏やかな瞳は何時までも変わらない。
出会った時から彼はもう既に大人で自分は子供、いつまで経っても埋められない距離。
今までの自分は、ただ彼の優しさに包まれて、甘えているだけだった。
現に、父の遺言を理由にして、若くて前途洋々であるはずの彼を、二年も自分のそばで無為に拘束しているのだ。
それを思うと、紫苑は、時折胸が締め付けられて堪らなくなる時があった。
自分のことを、彼は恨んでいるだろうか…、たまにそんな風に考える事すらある。
だが、そんな自分に対して、いつでも彼は優しいので、またずるずると甘えてしまう。
 彼女の視線に気付いたのだろうか、不意に蘇芳が紫苑の方へ顔を向けて、優しく微笑んだ。
彼の真っ直ぐな視線を受け止められず、思わず紫苑は下を向いた。
澱のように溜まっている自分の醜い部分を何だか見透かされているようで、萎縮してしまう。
「紫苑さん、寒いですか?」
小刻みに震えている彼女の手を見て、蘇芳は彼女に気遣いの言葉を掛けた。
雪は、先程にも増して降り頻っている。
「いえ…」
震えているのは、寒さのせいではなく、緊張のせいだ。
 彼女は今、胸の中で一大決心をしていた。
いつまで経っても、彼の優しさに甘えていてはいけない。
これからは、自分も彼の支えになるような女性になりたい。
―――これはあくまで、彼も自分を必要としてくれていることが前提の話なのだが。
何度も何度も頭の中で言わんとする言葉を反芻して、紫苑はようやく、おずおずと口を開いた。
「蘇芳さん…明後日で私、二十歳になるんですよ」
「勿論、憶えていますよ。何か贈り物をしないといけませんね」
さも当然と言わんばかりに即答してくれる彼に、紫苑は嬉しくなった。
「あの…お願いがあるんですけど。明日もしお時間があるなら、素描で構わないので、私の絵を描いて頂けませんか?」
思いがけない彼女の言葉に、蘇芳は紫苑の顔を見つめた。
「私なんかでは上手く描けませんよ、そもそも静物画専門ですし」
「十代最後の思い出に、是非蘇芳さんに描いて頂きたいんです…」
真摯な眼差しで訴えかけてくる彼女に、蘇芳は一瞬言葉を詰まらせたが、ついには幽かに微笑んで承諾する。
「…お嬢さんがそこまで仰るならば、お断りするわけにはいきませんね」
人物画を描いたことがないわけでもないので、どうにか仕上げられるだろう。
果たして、それを、紫苑が気に入るかどうかはわからないが。
「有難う御座います!」
 紫苑が、あまりにも嬉しそうに微笑むので、出来るだけ期待に添えるような絵を描こうと心に誓う蘇芳だった。


季冬の最初へ 季冬 1 季冬 3 季冬の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前