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『幸せな笑顔』
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『幸せな笑顔』-3

…―――あの日から俺は日奈美を見る目が変わった。それも始めは同情とか、哀れみに近いものだったかもしれない。でも今は違う。日奈美を大切に思う気持ちは心からのものだ。  「日奈美ぃー、起きろー。ほら、幼稚園遅れるぞ。」「うぅー…ん」
布団をはぐって日奈美を起こした。
「おはよう、日奈美。」
「んー。ぉはよお、パパ。」
そう言って笑った顔の眩しさが、俺の眠気も吹き飛ばしてくれる。今ではもう日奈美の笑顔が脆くて壊れやすいだなんて思わない。俺がいるから。俺が日奈美の笑顔を支えている、日奈美が笑って俺をパパと呼んでくれるたび、そう信じられるから。

 「お兄ちゃんっ…!」
制服姿のままの葉月が息を弾ませながら駆け寄ってきた。
「ハァ…ハァ……。お父さん達は!?」
俺は黙って斜め上を目線で指した。緊迫した赤い光のなかに『手術中』の文字が浮かび上がっている。
 親父とお袋が交通事故にあって病院に運ばれたという連絡をうけたのは2時間前の話だ。俺は急いで病院に来たが、かれこれずっと病院のくたびれた黒いベンチに座って『手術中』の文字を見続けていた。
「お父さんとお母さん、どうなの?」
「かなり、危険な状態らしい。」
「…っ。お父さん、お母さん。」
消え入りそうな声でそう言って、葉月はその場にへたりこんだ。目をぎゅっとつぶり、胸の前でしっかりと両手を組んでいるその様子は、敬虔なキリスト教徒のそれよりも真摯で熱心な祈りに見えた。
 『手術中』を浮かび上がらせていた赤い光が消え、中から険しい顔の医者が出て来た。
「あの・・・父と母は。」自分の声が震えていることに気付いた。手術室から出てきた医者の顔を見た瞬間に浮かんだ、いや、病院に来てからずっと俺の頭の中にこびりついて離れなかった想像が、声だけでなく俺の全身を震わせる。葉月はさっきのままじっと動かない。1、2秒沈黙の後、医者はゆっくりと、首を横に振った。
「残念ですが……」
―――――――…


 親父とお袋が死んだ時、俺は22歳、葉月はまだ17歳。俺は大学を卒業したばかり、葉月は高校3年生になったばかりだった。幸い俺は既に就職が決まっていたし、親父達の遺産と保険金で、金に関しては俺と葉月二人で暮らす分にも、葉月の高校の学費のことにしても何も困ることは無かった。しかし俺も葉月も相当まいっていた。とくに葉月は目に見えるほどに憔悴していた。だからだろうか、葉月があの男と…。
 高校を卒業してすぐに葉月は家を出て行った。進学や就職を理由に一人暮らしを始めたというわけではない。結婚したのだ。卒業してすぐに。相手は担任の教師だった。本人達は、前から葉月が高校を卒業したら結婚するつもりだったらしいが、俺にしてみればまるっきり寝耳に水の話だった。結婚はおろかそんな相手と付き合っていることすら知らなかった。もちろん俺は反対しようとした。しかし葉月の相手は俺よりも年上で、しかも職業も教師。明らかに自分よりも大人で、収入も、社会的地位も上。そんな相手にまさか
「お前に妹はやれない。」なんて言うことはできるはずもなく、結局俺は葉月の結婚に何も言うこともできず、親父とお袋が死んだ次の春、俺は家に一人取り残された。
 4年後、一人での暮らしにも慣れ、それがとっくに当たり前になっていたその頃、葉月は帰ってきた。葉月と、日菜美の二人だけで。離婚の理由は、言ってみれば陳腐なもの、夫の浮気だ。俺は4年前を心底後悔した。何故あんな奴に葉月をわたしてしまったのか、何故結婚に反対してやらなかったのか、親父がいなくなって、葉月を守ってやるのは俺の役目だったはずだったのに、俺は葉月の兄でもあり、親代わりにもならなくてはならなかったのに、と。
 …もうあんな後悔はしたくない。俺は葉月を守ってやれなかった。せめて葉月の忘れ形見だけでも守ってやりたいんだ。いや、守らなければいけない。絶対に、日菜美は俺が守っていくんだ、何があっても。


「いってきまぁーすパパ!」
「いってらっしゃい。」
小さな手を大きく振って幼稚園に駆けていく日菜美に俺も手を振ってこたえる。いつもどおり日菜美を幼稚園まで送ったところだ。俺もこれから会社に急がなくては。車に乗ってキーを回す。本当は車になんか乗りたくないんだが…。しっかりとシートベルトを締め、慎重に車を発進させる。すぐそこの赤信号で一時停車し、目の前の白と黒の格子模様を眺めた。あの日この模様を鮮烈に彩った赤色はもう名残すら残っていない。だが俺の心の中には未だくっきりと残っている。それはまさに血のようにべったりとこびりつき、この道を通るたび鮮やかに赤く蘇る―――――――…


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