藍雨(後編)-6
エピローグ
「もう一度、会っていただけませんか…」と、彼は、電話の先で小さく声でつぶやいた。
私のマンションの窓の外には、梅雨が明けたことを告げる白い積乱雲が、いつのまにか湧き上が
り、夏の青空に眩しく広がっている。
一ヶ月ぶりの彼から電話だった。あの夜、私は初めて彼に誘われたというのに、十数年前の彼を
脳裏の奥に確かに憶えていた。
その頃、私は、燿華という名前でSMクラブの女王様をしていた。そして、彼は、私の最後の客
だったのだ。当時は、まだ二十歳くらいだった彼は、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちで、何よ
りも黒々とした印象的な瞳をやさしげに潤ませていた。
あのとき、私は三年ほどつきあっていた恋人と別れたばかりだった。恋人と別れてからというも
の、SMクラブで私を指名する客の男たちの背中に振り下ろす鞭の音が、まるで私自身を傷つけ、
私の心を無惨に削いでいくように感じられたとき、私はSMクラブをやめた。
そう言えば、あのころの私の瞼の中には、いつも藍色の雨が降っていたような気がする…。
「もしかしたら…あなたは、あのときの燿華さんではありませんか…」
携帯から聞こえる彼の声が、微かに戸惑っているのがわかった。電話の先の彼と私のあいだに
わずかな空白の時間が過ぎたとき、私はあの頃の自分の何かを、心の奥深く呑み込んだような
気がした。
「違うわ…きっと、人違いでしょう…あなたの初恋の女性になれるほど、私は素敵な女じゃない
わね…」
マンションのバルコニーで、私は、抜けるような夏空に向かって背伸びをしながら、大きく息を
吸う。白い入道雲が、ゆっくりと瑠璃色の風に流れ始める。
私の視界は、遥か遠い夏空に吸い込まれ、眩しい夏の光が、優しい笑みを浮かべながら、藍色の
雨に濡れたあの頃の懐かしい私を追いかけていく。
その光の中に、ふと電話の先の彼の顔を浮かべたとき、私は、ふたたび藍色に染まった自分を
求めて、彼の中に旅立ってもいいような気がした…。