第16章-1
家に着くと、玄関には怒りに顔を真っ赤にした紘一郎が待っていた。
『沙良!これは…どういうことだ!!』
予想だにしない紘一郎の怒号に沙良は勢いを奪われて絶句した。
『な、何ですか、いきなり』こちらとて黙ってはいられない。
すると、紘一郎は手に持っていた数枚の紙を沙良の顔に投げつけた。
それは、緊縛され、性器にピアスを付けられて数々の男に犯されている沙良の画像のプリントアウトだった。沙良の左乳房と臍の右脇にはほくろがある。だから仮面は付けていても、夫の紘一郎なら沙良であることはすぐ判るのだ。
思わず息を飲んで『どうして…これが…』と言ったまま沙良は絶句した。
『どうしてだと!?それはおまえがこんな所に出入りしているからだろうが!!!』紘一郎の怒りは頂点に達した。
創は…いるのだろう。だが2階の自室に籠って出ては来ない。
沙良は深呼吸を一つして『私も、お話があります。この通帳の件です』静かにそう告げると、今度は紘一郎が青くなる番だった。リビングのローテーブルに十数枚の写真を並べ、『通帳から不自然な引き出しがあって…恐ろしくなって探偵事務所を橘川さんにご紹介頂きました。度重なれば医院の経営にも支障を来たしますので』
一度深く息を吸って、沙良は『これは紘一郎さんです』と断言した。紘一郎は黙ったまま目の前で固まっている。半年に一度決算をするのだ。バレないはずがないだろう。いや、そこまで沙良が調べつくすとは思わなかったのか?だとしたら見くびられたものだ。
『金が…要りようだった…。ボーナスが入ったら返すつもりだったんだ…』小さくなりながら紘一郎はそう言った。そしてぐっと顔を上げ『だから、これは盗んだんじゃない!それより何なんださっきのあの写真は!』紘一郎は一気に激昂する。
『それも、貴方なんじゃないんですか?』沙良は冷たい目で紘一郎にそう問うた。
『なん…だって!?俺が何でおまえにそんなマネをさせる理由がある。第一知れればこれほど外聞の悪いことはない!』…本音かどうかは疑わしい。だが沙良はその件に関してはそれ以上追求せず、『…あそこの有償会員にさせられてるのです。イベント参加も知らぬ間に申し込まれていました。断れば多額のキャンセル料が派生しました。せめて手掛かりだけでも手に入れたい気持ちで参加したのです。ところで、預金の件ですが、この前出たはずのボーナスでお返し下さるんですね』と冷淡に訊いた。
すると紘一郎はぐっと息を飲み込んで『…いや…この前のでは払えん。いろいろ物入りだったから…冬の分で返す』
これはウソだ、と確信した沙良は『出来ない約束はいりません』と冷たく言い放った。
『なん…だと!?そもそもおまえが医者をやれてるのはうちの出資あってこそだろう!それを返してもらってるのと同じだ。何ならつぎ込んだ学費の全額を引き出したって罰は当たらない!』紘一郎は完全に逆ギレしている。
『わかりました。それならば残額もお返ししましょう』沙良がそう言って紘一郎を見据え、『でも、それならもう紘一郎さんと“同居”している理由はありません』そう、きっぱり言い放った。
『ああ良いだろう!こんな、縛られて何人もの男に犯られてよがるような淫乱女など、願い下げだ!』そう紘一郎は言い捨てると、どすどすと廊下を踏み鳴らして自室に籠った。
正に売り言葉に買い言葉。互いに歩み寄らない不毛な口論の行き着く先は、関係の破綻だ。
沙良の頭は冷えていた。終始冷静だった。だが新たな疑問が生まれていた。
―何故あんなものを紘一郎は持っているのだろう。郵送されたのだろうか。あの態度からして入会させたのはやはり紘一郎とは考え難い。あの画像は有料会員しか閲覧できないページに格納されている…。だとすれば、誰が…。
際限なく起こる訳のわからない仕儀にさすがに沙良は疲弊した。
いずれにしても紘一郎とはもう、これまでだろう。あのプライドの高い男が、妻の蓄えを着服し、その証拠をつかまれた。その上、妻のあんな醜態を見てしまえば、夫婦生活を続けることなど不可能だ。
離婚調停に持ち込み、互いの恥ずかしい写真を披露しあって、それで終わりだ。沙良は次にするべきことを考えて自嘲気味に嗤った。マスコミが書き立てるだろうか。まぁ内情までは知られるまい。人の噂も75日。いずれ忘却の彼方だ。そもそもタレント活動など沙良には向いてない。
沙良はホッとしてしまっている自分に驚いた。これで、十数年続いた気詰まりな生活からやっと開放される。
次の週末、紘一郎は小さなボストンバッグに当座の荷物を詰め込むと沙良の家を出て行った。どこまでも外聞を気にする紘一郎は、離婚調停もする気はない、と言った。
呆気ない幕切れだった。