前編-1
町外れの小高い丘の上に一軒だけ大きな屋敷が建っている。丘全体は杉林に覆われ、屋敷の周囲は高い白壁に囲まれており、普段からひっそりとして人気がない。
ここ黒美市は、人口約50万人の中規模な市で、駅を中心に開発も進み、人口も増加していた。しかし、その丘だけは開発の手が入らず、頂上の屋敷は、まるで街を見下ろしているかのようであった。
それは、昔からの大地主である羽柴家の屋敷であった。現在の当主である羽柴英吉は市の開発で財を膨らませ、今では、その地位と財力を利用して裏の世界を取り仕切るフィクサーとして、黒美市だけでなく周辺の地域にもその筋では名が知られていた……。
冬の短い陽も沈み、辺りが暗闇に包まれた頃、屋敷の大門の前に1台のタクシーが停まった。中から長身の美しい女が降りてくる。しかし、その美貌は、緊張からか固く強張っていた。
女の名は加藤美咲という。黒美市で数店のスーパーを経営する二代目社長の光一と結婚して2年目の29歳だ。社長婦人と言っても中小企業であり、ごく普通の人妻に過ぎない美咲にとっては羽柴邸など全く縁の無い場所であった……。
――昨晩
美咲は、会社の資金繰りに疲れ切った顔をした光一に頭を下げられ、会社を救うために羽柴の屋敷に一晩だけ行ってくれと頼まれた。
光一は、美咲と結婚した頃から事業拡大に乗り出し、カラオケ店やパチンコ店に手を広げ始めた。しかし、折からの不景気のためそれらは悉く失敗し、本業のスーパーの経営にまで影響を及ぼすほど危機的な状況に陥っていたのだ。銀行に融資を渋られた光一は、縋る思いで羽柴の屋敷に赴き、何度も頭を下げ、自分のスーパーが長年地元の生活を支えてきたことを懸命に訴え、支援を求めたのだ。
「よろしい。地域のため、あなたの会社を支援しましょう。ただし…あなたの奥さんを一晩、この屋敷に寄越すことが条件だ」羽柴の答えであった。
予想もしていなかった条件に光一は躊躇した。大物としての実力に加えて、羽柴は無類の女好きで、屋敷では何人もの美女が羽柴の餌食になっているという噂も耳にしていたからだ。その条件を呑むことは自分の最愛の妻を生贄に差し出すに等しいことであった。しかし、命より大切なスーパーを守るため、光一には選択肢はなかった。
羽柴邸から帰宅した光一は、次は妻の美咲に頭を下げた。しかし、美咲の反応は以外なものであった。
「分かったわ。あなたばかりに苦労かける訳にはいきませんもの。それに、その羽柴っていう人、結構高齢なんでしょう?一晩といっても、お酒のお相手だけで済むかもしれないわ」
光一はそれ以上何も言えないまま、翌日の夕方、家を後にする妻を見送るだけだった……。