第5章 プロヴァンスへ-1
1、父の手紙
鴻作よ。何から話して良いやら。珠子を道連れにするのは、何にも増して翔子のためにと考えたことは真実だと分かって欲しい。その上で、珠子と私を救う道がこれだったと、温かいお前のことだもの、自分のことのように分かってくれると信じている。
だからお前には、包み隠さず今日までのことを報告しておこうと思う。
お前に無理難題をふっかけた夜のことだ。珠子の異変に惑わされ、結果お前の手を煩わせながら、あれ以来、一度の連絡もせずにいたことを先ず詫びたい。
あの夜サキから電話があったのは、＜珠子が変＞だということだった。ただならぬサキの様子に、私は取る物も取りあえずタクシーを飛ばし、おぞましくも懐かしい家に行った。そして、珠子の地獄を見てしまったのだ。
私は、サキが指さす珠子の部屋のドアを蹴破って部屋に入った。ミニョンという美しい女性がベッドに縛り付けられ、瀕死の状態に見えた。珠子は、アイロンを手にしたままうつろな目で側にしゃがんでいた。とにかく私は、肉の焦げる匂いがするミニョンを自由にしたが、ショックで失神しているだけで命に別状はないように見えた。タオルに氷を包んで火傷をで冷やし、車まで運んだ。翔子はもう眠っているようだった。起こしてこんな状況は見せられない。小枝子と智代を起こしてサキを手伝わせ、珠子を車に乗せた。茫然自失だった珠子がおとなしく従ってくれたのは助かったよ。
車を飛ばしながらお前に連絡した。あの連絡は車の中からだった。とにかく、動きながら考えるよりなかったのだ。
本当にお前は凄いヤツだと思った。なぜなら、私のおおよその話から、都内の病院ではまずいと判断したお前の判断だよ。夜中だったから湯河原までは1時間余りで着くことが出来た。小田原在住の詩人だというお前の友人には、その後、お礼は言ったが、その男もまたお前の友人らしいいい男だった。その彼の同級生だという湯河原の外科医院にミニョンを担ぎ込んだ時には、その医者は大体を把握していたからね。とにかく、物も言わず手早い処置をしてくれた。私の冷やしたタオルは既にミニョンに食い込んでいたらしいが、それがなければ、もっと傷は深部に達していたかも知れない、と言ってくれた。
取りあえずは彼女を医者の手に預けて安心したが、安心できないのは珠子の方だった。何故なら、これは明らかな傷害致死未遂事件だからね。都内の医者だったら、忽ち珠子は逮捕されたことだろうから。
ミニョンの処置をする医者を手伝っている間、サキたち3人は、車の中で狂乱する珠子を持て余していたよ。そうしたらね、その医者が車まで走って来て安定剤を1本、ブスッとやったよ。珠子はアッという間に落ち着いて眠ってしまった。本当に医者ってのは鋭い勘を持っているものだと感心したね。
事の原因の詳しいことはあまり良くは分からなかったが、とにかくミニョンを医者に頼み、明け方近くに珠子を私の家へ連れ帰った。サキも小枝子たちもヘトヘトで、珠子が落ち着いている間に眠らせ、私はその足でまた湯河原へ向かった。
この医者はミニョンの傷を見て、多分、嫉妬に狂った女の憎しみの行為だ、と言うのだ。性感帯の一番重要な部分を無くしてやろうという、男では発想できない酷さがあると。
私は医者の言葉で納得できた。結婚してすぐに、珠子の性癖と狂気の一面が分かったからね。私が由緒のある家系のために飼われた種馬に過ぎなかったことまでも。
しかし私は、どのような形であれ、種馬の役割を実践しているうちに、例え木偶のような反応であれ、妖しく美しい珠子を愛してしまっていた。これは、お前には言わずもがなのことだが、良くも悪くも、常識に捕らわれない生き方を信条にしていると、珠子の同性愛指向を全く否定する気持ちはなかった。と同様に、私がそういう珠子を愛するのもまた、理屈でどうなるものではない。しかし、常識的に言えば、つくづく変な三角関係になってしまったものだと思うよ。
珠子は、翔子が生まれてからはその性癖を隠そうともしなくなった。さすがに私の前では慎んではいたが、同じ女性、それも美しい女性に対する態度や媚び、甘く囁く声の調子までが変わるのだ。そうした珠子にとっての翔子は、手の掛かる迷惑な存在のように見えることもあった。
翔子はサキが育てたようなものだが、思い出したように見せる母親としての姿は、珠子の性格の二重性を思わせたが、惚れた弱みを持つ私にはそれが珠子本来の姿なのだと思ったりもした。だから、種馬の役割が終わったことは分かっていても、珠子の姿を見ていたい気持ちと、それ以上に、育っていく翔子が可愛くて別れるのを渋っていた。しかし、夫婦の芝居も3年は長かったね。お前に逆玉だなんて言われたが、その時の実体まではお前にも言えなかった。
結局、翔子を私の手で育てたいという願いは、良家の血筋をつないだだけの種馬に過ぎなかった私には無理な話だった。だが、離婚の話し合いがこじれている間は、珠子と一緒にいる喜びを感じていたのも偽らざる本心だった。ただ、慰謝料だといって、白紙の小切手をくれようとした珠子を、この時は心から憎いと思って小切手を破る手で殴ったよ。私のプライドなどではなく、男全体を金の価値判断で見ているという、ちょっとおかしい言い種だが、女性至上主義的な珠子のエゴに対しての怒りだった。
今告白するが、珠子の悪魔的美貌がそうさせるのか、格好つけて言えば、私の「美」に対するレンジのせいだったのかは分からない。＜憎い憎いも好きのウチ＞というが、まさしく私の心境は、この美しい悪魔のような珠子に魅入られて、自分でも意識していなかった、深く美しい闇の世界が描けそうな気もしていたのだ。つくづくお前とは、美に対する執着という点では、そんなところまで似ているなと思った。といっても、お前は、亡くなった彼女一人を想い続けているという点であって、天使のような彼女と悪魔の珠子を一緒に扱うわけではないが。