肉体の取引 前編-1
その男から慶子あてに電話がかかって来たのは、出張から戻ってすぐの金曜日のことだった。
一日がかりで整理を終えた大量の取材ファイルを抱えながら、資料室へ向かおうと立ち上がった途端、デスクの上の内線電話が鳴った。
『―――川瀬様とおっしゃる方から2番にお電話です』
「―――カワセ?」
新入社員の自分にわざわざ名指しで電話がかかってくるような相手ならば大概はピンとくるのだが、その名前には聞き覚えがなかった。
直近の取材の記憶をザッとさかのぼってみても、思いあたるような人物はいない。
『―――誰やろ?』
手にしていたファイルを机に起き、体勢を立て直してから2番のボタンを押した。
「もしもし――お電話かわりました」
『―――突然申し訳ありません。わたくしTデパートの川瀬と申します」
「Tデパート……?」
思いもよらぬ「Tデパート」という言葉に、慶子は軽い緊張感を覚えた。
まさか三田村に関わることだろうか―――だとしたらどんな用件で?
様々な不安が一瞬にして慶子の頭を駆け巡った。
先日出張でK市を訪れた際、夜遅くに三田村を無理に呼び出してしまったことを、慶子は今も深く後悔している。
三田村は結局何も言わなかったが、あの時本当は何か大切な用件があったのではないかということがずっと気になっていた。
あれ以来二人の仲がぎくしゃくしているだけに、必要以上にナーバスになってしまう。
『実は――あなたが交際されている、うち社員の三田村のことで、重要なお話があるのですが……』
「……えっ……」
一応予想はしていたものの、実際その名前を聞いた途端、ショックで胸がキリキリと痛んだ。
「………あの、ど…どういったご用件でしょうか……」
相手から何を言われるのだろうという不安で声が上擦ってしまう。
いつもと違う慶子の様子を不審に思った塚田が、心配そうにこちらを見ながら、身振りで「大丈夫か?」というサインを送ってきた。
いささか口は悪いが、部下のこういうちょっとした異変を敏感に察してくれるのが、塚田のいいところだ。
だからこそプライベートなことでまで心配をかけまいと、慶子はデスク越しのボサボサ頭に気丈な笑みを返して見せたが、頭の中は言いようのない心細さでぐるぐるしている。
『……ちょっと電話では話しにくい内容ですので……お仕事が終わられましたらご連絡下さいますか?―――番号は……』
具体的な内容には一切触れないまま、11桁の数字だけを告げてその電話は切れた。
会社の関係者がわざわざその交際相手に連絡をしてくるというのは一体どういう用件なのだろうか―――。
三田村に直接電話して心当たりがないか聞いてみようかとも思ったが、これ以上二人の関係を悪化させたくないという思いが慶子をためらわせていた。
『――その程度でセクハラや言うてたらキリないわ――もっとひどいことされて我慢してる子もたくさんおるんやで……』
あの時三田村に言われた言葉が、慶子の胸に深く刺さっていた。
『――うちは……もっと強うならなあかんよね……』
これまでの自分は、三田村に依存しすぎていたと思う。
今回の件は出来ることならば三田村の気を煩わせずに事を終わらせたい。
慶子の頭の中は三田村への一途な思いでいっぱいになっていた。
――――――――――
その日の夕方六時―――。
電話で指定された私鉄駅の改札で待っていると、南口のほうから頭のはげ上がった初老の男がしきりにお辞儀をしながら近づいて来た。