凪いだ海に落とした魔法は 3話-20
「ハッ――。冗談だろ」
沢崎がにべも無い様子で口の端を歪ませる。
「お前を女王様みたいに崇め奉って喜ばせろとでも? ぞっとする話だ。金を返した方がまだマシだな」
けんもほろろにあしらう沢崎。僕は少し考え、「確かに」と頷いた。
「3千円の割りには合う仕事ではないと思うね。大体、そんなのどうしたらいいのか僕にだって分からない。君自身が何を楽しいと思うのか、まあ、思うことができたとしてだけど、それさえも分からないのに、僕らにどうしろと」
日下部は少し考える素振りをしてから、首を横に振った。
「それを考えるのは」と彼女は言葉を区切って「あなたたちの仕事よ」と硬い声音で続けた。
「だから、やらねえよ。そんなこと」沢崎が言う。
「そう。残念。それならそれでいいのだけれど――」
日下部の瞳が妖しく輝いたのを、僕は見逃さなかった。
「何?」
「それなら、私にも考えがある」
彼女は何だか深遠な笑みを浮かべていた。偽りの笑顔。いくつもの巧妙な罠を張り巡らせ、そしてそこに誰かが飛び込んで来るのをじっと待っているような、酷く油断のならない顔付きだった。
「考え?」
「バラすだけだから。あなたたちがしたことを、全部ね――」
目線だけは微動だにせず、日下部は口許で笑う。その作為的な表情に生えた棘が、チクリと僕を刺した。「この意味、分かる?」と。
「脅しか、それは?」
何が面白いのか、沢崎の目が楽しげに細まる。不敵な目。
「まあ、そう呼ばれる交渉手段であることは、否定しない」
「お前だって困るだろ。不正をしたのは、みんな同じだ」
「別に。私はいいのよ。最悪停学になったって。でもあなたたちは、お金も失うことになるんじゃない?」
確かに。そうなった場合、僕らが稼いだ金は没収されるだろう。そうなれば日下部や他の生徒にも代金は返ってくる。まさか全員が停学ということはないだろうが、僕と沢崎は反省文だけで済むとは思えない。一番損をするのは僕たち二人だ。菊地と違って日下部が罰を恐れないと言うのなら、どう考えたって状況はこっちの方が不利だった。
彼女はその柔らかな感触を確かめるようにして髪を鋤いた。それを眺めている僕の指にも、絹を撫でるような感触が伝わってくるようだった。
「こういうのって、実行犯の方が罪が重いのよね?」
「――食えねえ女だな」
沢崎が笑みを浮かべながらも憎々しげに呟いた。
「失敗したら、つまり、君を楽しませることができなかったらどうする。その時もバラすのか?」
「あなたたちが全力を尽くした上での結果なら、まあ、不問にしてあげるけど」
つまり、と言って彼女はその先を続けた。濡れた瞳がビー玉みたいに輝いて、僕たちを静かに刺し貫いている。背中に虫が這うような錯覚がした。
「犬みたいに尻尾を振ってればいいの、あなたたちは。わんわんって。そうしたら、期待外れでもご主人様は許してあげる」
そう言って彼女は謎めいた笑みを作る。誰も知らない秘密の回廊の奥。未開の扉を開けた先にその笑顔の本質は潜んでいるようだった。僕はそれを捕らえることができず、ただ女性が時折り見せる神秘性に圧倒されるのだった。