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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-19

「別に。ああ、凄い速さで走ってるんだなって、ただそれだけ」
「じゃあさ、周りで誰かが楽しそうにお喋りしていて、自分もその輪の中に入っていったら楽しいだろうな、とは思わない?」
「そんな風に思えるなら、もう私は普通だよ。楽しいだろうなって、そう思う時点でね」
「そんな自分を寂しいと思ったことは?」
「ない。私はいつもこうだったもの。何かが欠けている、という認識はある。だから、それが欲しいとは思う。ただそれだけ」
なんだ。と僕は思った。全然違うじゃないか。
「あのさ、やっぱり僕には全然違うように思えるよ。その、さっき沢崎が言っていた日下部評と、実際の君は」
彼女はほんの少しだけ驚きに目を見開き、僕を見た。
「そう? 概ねは合っていたと思うけれど」
「いや、だから細かい部分が大事なんじゃないか。それで意味が全然違ってくる」
「そうなの?」
「そうだよ」
「――なあ、そんなことより、お前、バイク乗ってるのか?」
沢崎が会話に割って入る。そんなことってお前――。
「乗るよ」
「へえ」

沢崎は、明らかにさっきまでとは質の違う目で日下部を矯めつ眇めつ眺めた。その視線に羨望さえ含まれているように見えるのは気のせいか?

「そんなことより」

日下部がその視線を切り捨てるように言った。
「そんなことって」と沢崎が顔を歪める。もっと色々と聞きたかったのかもしれないが、本人のことには関心を示さず、彼女の乗るバイクにだけは興味津々とは失礼な話だ。

「話を戻したいんだけれど。金は返さなくてもいいって、私は言ったよね」
「金? ああ、お前らその件で来たんだったか」
「そう言えばそうだったね。僕も日下部もお前に騙された。いや、忘れていたわけではない」
「どうだかな。それで、金の話がどうした?」

彼女は目元に垂れた前髪を指で払い、心許ないほどに澄んだ瞳を僕らに向けた。目が合うと、刹那の間、時間が止まったような錯覚を覚える。

「返金はしなくていい。その代わり、私にして欲しいことがある」と彼女は言った。
「王子様のキス?」沢崎が茶化し、「つまらないよ、それ」と僕が忠告する。日下部は僅かに顔を左右に揺らし、否定した。

「――私に、“楽しい”ってことを教えて欲しいの。知識じゃなくて、体験として」
そんなことを、彼女は言った。
「ふむ」
「はあ」

僕と沢崎は顔を互いに見合わせた後、もう一度、日下部の顔を見た。青銅の彫刻みたいに無表情な顔が、変わらずそこにある。

「何だよそれ」と沢崎が片眉を上げて言う。
「バイクに乗っても何も感じない不感症女を、俺たちが楽しませろと?」
「そう。私は知りたいの。“楽しい”っていう感情を。映画を観ても、本を読んでも、バイクに乗っても満たされない。こうやって人と話していても、単なる意思疎通に楽しさなんて見い出せない。私の力だけじゃ、どうにも無理らしい。だから、あなたたちの力を貸して欲しい。――ところで、不感症って何?」

職人が研き上げた上質な金属板みたいにフラットな口調で、彼女は言った。頼み事というより、命令的でさえあった。その声はぴったりと鼓膜にフィットするような親和性で僕の耳に届いた。


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