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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-18

「病気だな、それは。勿論、精神の方の」

愛想が尽きたように沢崎が呟いた。彼女の言を信じている様子はまるでなかった。まあ、当然だろう。

「違う。肉体の方だと思う。遺伝してるもの。脳の何かがイカれてるんだ。私の母親もそうだった。兄は普通だけど、私だけが母と同じだった」

沢崎は嫌味を言っただけなのだが、日下部はかぶりを振って律儀に訂正した。

「“だった”って、治ったのか? その、病気みたいなのが」

僕の問いに、日下部よりも沢崎が反応した。「お前マジで信じてるのか」と言いたげな視線を投げて寄越す。それを無視して日下部を見詰める。漆黒の髪が暗い照明を鈍い光で跳ね返していた。

「死んだよ」と彼女は言った。
元気だよ、と言うような気楽さで母の死を告げる横顔は、まるで痛痒を感じさせなかった。とっくの昔に心の整理は付いていて、単なる情報としてその記録を済ませているようだった。実利的な思考処理ではある。

「ああ」と僕は言って「そうか」と続けた。余計なことは言わないほうがいいだろう。

「なるほど。母を亡くして“楽しさ”という感情を忘れた美少女か。はいはい。感涙ものだな。で、どうやったらお前は“楽しさ”を思い出す? 王子様の口付けか?」
「母さんが死んだことと、私の心身状態とに因果なんてないよ。あの人が生きてるときもこうだったもの。それに、忘れたという言い方は正確じゃないと思う」

沢崎の皮肉は虚しく弾き返された。彼女にその手の嫌味は通用しないと、いい加減に学んだらどうだ、沢崎。

「日下部。君の言うことが嘘だと言いたいんだよ。彼は」
「お前は信じるってのか。志野。夢みがちな奴だ」
「確かめるすべはない。他人が楽しいかどうかなんて、どうやったら判断できる。にこにこしながら心の中では溜め息をつくことだってあるだろう。ましてそれが日下部なら僕には何も言えない。信じるも信じないも、判断材料がないんだよ」
「そう。信じる信じないは重要ではないの。私が言いたいのは、そういうことじゃないから」

「はあ」と沢崎は吐息の塊を吐き出して、代わりにぬるくなったであろうビールを飲み込んだ。そう言えば、僕と日下部にはお茶のひとつも出てこないのだろうか。

「なるほど。それでロボットね」と沢崎が呟く。「でも」と日下部が言う。
「怒ったりはできるよ。それは、ロボットには無理じゃない?」
「知るか」
「感情がないわけではないんだろ。それは、今までの君を見ていれば分かる」と僕は言う。
「アホくさ。何の話だよこれ」
沢崎、お前は黙ってビールでも飲んでいろ。
「そう。ただ私は“楽しい”と思うことがないだけ。それ以外は普通だよ。何かに苛立ったり、悲しんだり。ああ、昔、飼ってた猫が家の近所で車に牽かれて、お腹が潰れているのを見たときは、悲しかったな」
「じゃあさ、自分が“楽しい”という感情を知らないことに対して、君自身はどう感じているのかな。悲しい?」
「いいえ。失ったのならともかく、初めからないんだもの。猫は自分に翼がないことを悲しまないでしょ。欲しいとは、思うかもしれないけれど」
「なら、普通の人を羨ましいとは思う?」
「思わない。さっきも言ったように、楽しいということがどれだけ心地のいいものなのか私は知らないから。欲求と羨望は別物」
「今は、楽しくない?」
「全然」
はっきりと言ってくれる。
「バイクに乗ってる時は? 凄いスピードで風を切って、楽しいとは思わない?」

バイク? 沢崎のグラスを持つ手がピタリと止まった。ああ、こいつは日下部がバイクに乗っていることを知らなかったか。


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