凪いだ海に落とした魔法は 2話-10
全ての授業が終わった。午後の倦怠感に代わって生まれた解放感が、蜂の巣をつついたようなざわめきを教室に呼び込んだ。僕は一人、そのエアポケットの中で教室から人がいなくなるのを待っていた。友人と呼ぶには微妙な関係のクラスメイトが何人か話しかけてくる。僕はそれに適当に応え、のらりくらりと帰宅準備をしているうちに、気付けば辺りは静かになっていた。
期末試験を前に部活動は停止期間に入っている。ましてや連休前で浮き足だった彼らの足取りは、いつまでも教室に居残ることを許さない。英気を養いに街にでも出るか、早々に帰宅して試験勉強でもするのだろう。
金曜日の放課後。人いきれの消えた教室は透明な静寂に浸かっていた。人気のない教室は静けさを際立てる。眠そうな風がゆっくりと流れていた。間延びした初夏の吐息を思わせる、ひどく生温い風だった。開け放たれた窓を閉めるのは、最後に残された僕の役目なのだろう。
期末試験も、繁華街に繰り出して遊ぶ日常も、今は遠い他人事のように感じられる。
がらりと教室のドアが開けられ、一人の女子が入ってきた。彼女は無表情な顔で僕の姿を認め、近づいてくる。真っ直ぐ背筋を伸ばした歩き方で、フィギュア人形が歩いているようだった。
――日下部沙耶。
「遅かったね。こないかと思ったよ」と僕は彼女に言った。
「こないより遅れるほうがマシでしょ」
彼女は言った。ドライに抑制された発声で、怜悧な印象を与える声だ。必要事項を告げるためだけに生み出されたストイックな声質。冷たいコンクリートの肌触りみたいで、心地がいい。
「で、何?」
放課後の教室に、男子と女子が二人きり。辺りは静かで、秘密めいた囁きが静寂を破るのを待っている。内に秘められた甘い想い。期待と不安。そんなものは何処にもなかった。あるのは雪道の上を歩くような微かな緊張感と、申し訳程度の、罪悪感。
「売りたいものがある」と僕は率直に言った。
人気のない教室に呼び出され、いきなり、売りたいものがある。我ながら呆れた。
「私に?」
「そう。君に」
唇が薄く開かれ、そこから言葉の素材となる空気が吸い込まれていくのが分かった。でも、彼女はそれを吐き出すことなく飲み込んだあと、代わりにわけが分からないというような顔で僕を見た。
「悪いものじゃない。いや、悪いことではあるんだけど、少なくとも君に取っては悪いことにはならない」
話を聞くべきかどうかしばらく考え、一応、話を聞いてみることにしたようだ。彼女は手近の椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
甘ったるい風が横切った。それが生まれたての夏の香りなのか、それとも、彼女の匂いなのかは分からなかった。
放課後の教室。わざわざ二人きりになってから持ち掛ける内緒の商談。どう考えても、真っ当な物を売り付ける気じゃないことは、彼女にも分かっているだろう。
「まあ、ね」と彼女は言った。
「うん?」
「多分ね、その手の話は嫌いじゃない。私は」と彼女は言葉を続けた。耳元に掛かった髪を後ろに流し、僕を見遣る。
「だから君を選んだ」
「当たり」
そう言うと彼女は椅子を少しだけ僕の方に近づけて座り直した。そして小さな声で続ける。
「損をする人間の影には得をする人間がいる。その役を買わないか、という話でしょ?」
冷めた言葉で、冷めた声だし、冷めた口調だった。確かに、日下部沙耶は思っていた通りの人間らしかった。