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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 2話-9

携帯電話の電源を切り忘れていたらしい。五時間目の授業中に、沢崎からメールが届いた。わざわざE組のクラスから、『売れたか?』という懸念を解消するために。
携帯の震える音は、教師には聴こえなかったらしい。ゼンマイ仕掛けの人形みたいに、同じ姿勢で、同じ挙動を繰り返すその後ろ姿は、「何事もなく一時間が過ぎてくれることだけが私の願い」とでも言っているようで、潔かった。チャイムが鳴る瞬間まで、自分の声しか耳に入らないのだろう。賢いやり方だと思う。

僕は『6万円近くの稼ぎ。首尾よく進んでる』とだけ書いたメールを返信して、携帯の電源をオフにした。ディスプレイから光の消える瞬間が、僕は好きだ。世界と自分との繋がりが、ひとつ断ち消えたようで、少しだけ、クリアな気持ちになれる。部屋の灯りを消して、ベッドに潜り込む瞬間に似ているかもしれない。

目の前の席は、空席だった。もうずっと前から誰も座ったことがないかのように、日下部の不在なんて感じさせない、自然な空席。それが日下部沙耶の代わりに、僕の視線を受け止めている。彼女が朝から登校してきたおかげで、机も椅子も、見た目以上にくたびれているようだった。午前中いっぱいその役割を果たしたことなんて、日下部がこの席になってから初めてかもしれない。

今朝の約束を、彼女は覚えているだろうか。ニュースの占いで見た“今日の運勢”みたいに、昼になったらあっさりと忘れているのかもしれない。まあ、それならそれで構わない。もう充分に稼いだし、シマウマとチーターが向かい合ったところで、楽しくお喋りできるとも思えない。いや、そもそも約束なんてしていなかった。

彼女の書いた「覚えてたら」という字を思い出す。あれは、約束なんて呼べない。考えておくよ。その程度の意味。むしろ、控えめな拒否の意思表示、と受けとることもできる。約束は、忘れたほうが悪い。それに保険をかけた彼女は、忘れたって悪くない。

僕は窓の外に目を遣った。分厚い雲が浮かんでいた。その下を流れる、爽やかな風を想像した。
清澄な風?
それは勝手な幻想だ。空の風なんて、爽やかどころか、恐ろしく冷たいに決まってる。その冷たさは、人間には優しくない。人間に優しくない風なんて、清らかでも、爽やかでもいない。そういうふうに考えるのが、僕たちなのだ。人間のイメージなんて、風には知ったことじゃないのに。

――何だか、日下部沙耶と良く似ているな。

何となくそんなことを思って、僕は少し、可笑しくなった。




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